2008年04月05日

疑似科学と「空気」の研究(その2)

先日の「疑似科学と「空気」の研究」の続き。
前回はあまり長くなるのも良くないと思い、きりのいいところで終わったが、改めて読み返していたら「ここはどうしても触れておきたい」という部分がまだ残っていたことに気付いたので、もう少しだけ書いておくことにした。
前回分を未読の人はまずそちらからどうぞ。

 
 
 
◆疑似科学批判は何のため?

少し本論から外れるが、疑似科学の話から始めよう。
私はこのブログで疑似科学の話題を扱う場合、二つの視点から物事を見るようにしている。一つは疑似科学ウォッチャーとして疑似科学をネタとして捉える視点、もう一つは科学に携わるものとして、疑似科学を批判的に見る視点だ。そしてこの一連のエントリは疑似科学を批判する者としての側面からになる。
いきなりだが、疑似科学批判は、疑似科学のビリーバーを批判したり啓蒙したりするために行われるもの*1――ではない。疑似科学批判にそういった側面が無いとはいわないが、少なくとも私は、そういったことを目的としていない。疑似科学に嵌る人間を批判するのは簡単なことだが、前回も書いたような理由から、基本的に彼らに批判が届くことは無いからだ。



それでは何のために批判を行うのか?

疑似科学批判の最大の目的は、その言説を広めることによって、まだ疑似科学に絡めとられていない人間が疑似科学と接触したときに「ん?何か変だぞ?」「ああ、これが○○か」と、そのおかしさに気がつくようにすること――いわば疑似科学への免疫をつけることにある。科学者にも疑似科学にも特段の興味を持っていないその他大勢に、疑似科学の情報を提供することこそが、疑似科学批判が目的とするものである。このあたりの話は詳しく語ろうと思えばそれだけで何本もエントリを書けてしまうので、いずれ別の機会を設けてきっちり書くつもりだが、今はとりあえず「疑似科学批判の最大の目的は、疑似科学への免疫をつけること」だという事だけ覚えておいてほしい。

もう一点、疑似科学批判を考える上で重要なのが、「なぜ彼らは信じるのか?」の分析である。疑似科学に嵌った人間を引き戻すのが困難ならば、次善の策は「なぜ信じるのか」を詳しく分析し、その陥穽に落ちる人間ができるだけ少なくなるようにすることだ。これは「疑似科学への免疫」を用意する上でも重要である。ドーキンスは『盲目の時計職人』のまえがきで「それはあたかも、ダーウィン主義を誤解し、信じがたいと思い込むように、人間の脳そのものが特別にデザインされているかのようですらある。」と書いているが、実際人間の頭というのは、神秘的なものを信じやすいようにできているのだから。
空気の研究』は疑似科学批判を目的とした本ではないが、だからこそ疑似科学批判本とは一味違う、極めてユニークな視点からの分析がまとめられている。そして多角的な視点を持つことは思考の幅を広げ、事象の違った側面を見せてくれる。その一味違った視点こそが、私がこの本を紹介してみたいと思った理由であり、こうして長々とエントリを起こしている理由である。


◆『イメージ』の意味と重要性

それでは再び本書の中身を見ていこう。
『空気の研究』P.214より
先日原子力発電の今井隆吉博士が「その人に提供し、その結果その人が持っているはずの情報量と、その人の態度変更とは関係ない」ことが、さまざまの調査の結果明らかになり非常に驚いた旨話された。簡単に言えば原子力発電について三、四時間かけて正確な情報を提供し、相手の質問にも応じ、相手は完全に納得したはずなのに、相手はそれで態度は変えない。そして、今の説明を否定するかの如く見える一枚の写真を見せられると、その方に反応してしてしまうという。<中略>こういう事例は挙げていけば際限がない、というより逆の事例を探すほうが困難なわけである。

諸所の社会運動において顕著に見られるこうした性質は、疑似科学においても共通する。水伝や千島学説、911陰謀論などをはじめとして、参考事例には事欠かない。では、こういった反応はなぜ引き起こされるのか?

なぜこうなるのか?描写とか図像には思想性はないと人が思い込んでいるからである。ところが描写も図像も一つの思想を伝達しており、ある画像がどのような思想を伝達したかを研究する図像学(イコノグラフィ)という学問もあり、黙示文学もこの観点から「言葉にする連続的な映像の積み重ねによる思想の伝達方法」として研究されなければならないのである。
以上のような目で日本の新聞を読むとき、人々はそれがある種の思想を黙示録的に伝達することによって、その読者に一切の論理・論証を受けつけ得ないようにして来たことの謎が解けるはずである。戦時中の報道の研究、中国報道の研究、公害報道の研究等すべてをこの観点から行っていけば、単なる描写の積み重ねのように見えるものが、実は、ある種の思想で人々を拘束して、絶対に態度を変えさせなくする黙示録的伝達であったことを人々は覚るであろう。

 疑似科学を分析する際にも、この視点は極めて有効である。例えばバイブル商法の健康本に大量の「体験談」が記載されているのは、まさにこの黙示録的情報伝達の典型例である。これによってビリーバーは、その健康本の説く疑似科学的医療が本物であるという"イメージ"に、無自覚なまま拘束されていく。この視点から見ると『水からの伝言』もまた、人の持つイメージ刺激への感受性を大いに利用している疑似科学であるといえる。氷の結晶やラベルを貼ったビンの写真は、科学的には何の意味も持たないが、図像学的には大いに意味を持っているのである。ビリーバー達に視覚刺激を通してメッセージを伝えるという意味を。
 そして視覚刺激によって伝えられたイメージに思考が拘束された人間を、言葉のみによってそのイメージから解放するのは、極めて困難である。疑似科学のビリーバーを説得するのは、カルト信者の脱洗脳と同じくらい手間がかかる。唯一これを簡単に解除する可能性をもつのは、より強烈な別のイメージによる上書きくらいだろうか。これは結局別の「信仰」への置換に過ぎないから、あまりお勧めはできないが。このあたりの部分には、映像刺激・イメージ刺激に対する人の心理的反応の特性という、進化心理学的な観点からの考察も、今後追加されていくことになると思う。


◆『空気』に支配された人は過去と現在に囚われる

さて続き。P.216より。
人は、論理的説得では心的態度を変えない。特に画像、映像、言葉の映像化による対照の臨在観的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。
<中略>
この無力を知るとき、人はその臨在観的"空気"に対抗するために通常性的"水"をさす。しかしここで忘れてはならないことは、空気も水も、現在および過去のものであって、未来はそれに関係ないということである。従ってこの方法をとるとき、人は必然的に保守的にならざるを得ない。いわば進歩的な"空気"そのものが、実はもっとも保守的なものにならざるを得ないのである。そして過去の水は常に「目の前に予測しうる現実としての未来」を「差す」ことによって、この空気に対応するという形になっていた。だがそれも、いわゆる先進国の「現実」を自己の未来として臨在感的に把握することによって可能だったわけで、これは厳密な意味での未来ではない。
「未来は神の御手にある」という言葉がある。この言葉は宗教的に理解してもよいが、現実的に理解すればさらに明確である。人間の手は未来に触れることは出来ない。明日の状態に手を触れ得ないだけではなく、一時間後、一分後の状態ですら手を触れ得ない。簡単に言えば、例えば何かの拍子にストーブがすべって近寄って来ても、それが体にふれるまではジュッと感じないわけで、その五分前でも、人はそれに予め触れることはできない。そして中根千枝氏の言葉を敷衍すれば、そのストーブが五分後の未来において、人の体に触れたときどういう状態になるかをいくら説明しても、日本人はそれを信じないということである。これを短く言えば「人は未来に触れられず、未来は言葉でしか構成できない。しかしわれわれは、この言葉で構成された未来を、一つの実感をもって把握し、これに現実的に対処すべく心的転換を行うことができない」ということになるであろう。臨在感的把握は、それが臨在しない限り把握できないから、これは当然のことと言わねばならない。

論理的説得で相手を支配する『空気』を払うのはきわめて難しいという話。
ただ、この部分には違和感を感じる/納得がいかないという人は結構いるのではないかと思う。モノが誰でも簡単にイメージできるものだけに、このストーブのたとえ話はうまくないと私は感じた。そこで、ネタを「新興感染症」に置き換えてこのたとえ話を再構築してみた。こうすれば多少は納得しやすくやすくなるのではないだろうか。

簡単に言えば、例えば現在新型インフルエンザをはじめ各種新興感染症の脅威が盛んに言われているが、それを目の前の誰か、もしくは自分の経験として目の当たりにしない限り、人はその危険を実感できないわけで、たとえ感染の一日前でも、人は予めその病気を実感できない。そして中根千枝氏の言葉を敷衍すれば、新興感染症が数年後の未来において、自分の体に感染したときどういう状態になるかをいくら説明しても、日本人はそれを信じないということである。これを短く言えば「人は未来に触れられず、未来は言葉でしか構成できない。しかしわれわれは、この言葉で構成された未来を、一つの実感をもって把握し、これに現実的に対処すべく心的転換を行うことができない」ということになるであろう。臨在感的把握は、それが臨在しない限り把握できないから、これは当然のことと言わねばならない。

空気(臨在感的把握)による未来の把握とは、常に「自分/他者の過去/現在」を自分の未来に投影することによる把握であり、これは科学的予測や論理的な推論による未来予測とは根本的に異なるものである。臨在観的把握に依存する人間は、従って、過去に存在しないまったく未知の事態だとか、自分が過去の事例を知らない場合だとか、うまくイメージできないほど心理的距離が遠い事象などを、自分の未来としてイメージすることはどうしてもできない。そしてイメージできないから対策をとることもない。ストーブの火傷程度であれば笑い話で済むかもしれないが、新興感染症のようにより深刻な事態に直面している場合には、体験してからでは既に手遅れかもしれないのである。

疑似科学に目を転じると、この臨在感的な未来把握はさらに危険なものとなる。ビリーバー達の行動基準はロジックではなくイメージ・心証である。例えば先ほど例に挙げたバイブル商法のビリーバーなら、他者の体験談を自身の未来に投影する一方で、どれだけ論証を重ねられても考えを変えようとはしない。それどころか彼らは往々にして「バイブル」への批判を自身への攻撃と受け止め、感情的に反発する。合理的な根拠を持たないイメージを自身の未来に投影し、疑似科学に身を任せることがどれだけ危険かは、頻発する健康食品による健康被害や、無根拠を通り越して有害な一部の代替医療による事故など、医療健康系の疑似科学がもたらす各種社会的被害に目を向ければ明らかである。しかし彼らは自分達が危うい位置にいることすら理解していないことが多い。


◆イメージVS論理の平行線

次に、論理ではなくイメージによって対象を把握する性向(臨在感的把握)が疑似科学批判の議論にもたらす弊害について。

同時にわれわれは、自らの手で、このような形で言葉を形成したことはなかった。言葉は常に黙示的伝達の手段であった。これは、日本の批評にも現れており、論争の際でも相手の言葉の内容を批評せずに、相手に対するある種の描写の積み重ねで、何らかの印象を読者すなわち第三者に与え、その印象に相手を対応さすことによって、その論争に決着をつけてしまおうとする。この結果生じたのが「世界でもっとも罵詈讒謗に弱い」という批評を受ける状態であった。いわばある種の情況を創出されることを極端に恐れ、その情況による人びとの心的転換を恐れるという態度である。ただこれも「空気」が消えれば消え、したがって、論証によってより正確な未来を言葉で構成することを不可能にしている。それがさらに、人びとが「言葉による未来の構成」を実感しないという悪循環を生んだ。一方、これではどうにもならぬということに気づいて「否応なく未来の予測を必要とする集団」たとえば企業などは、自らを一種の鎖国状態におき、その密室内だけで、自らの内で通用する言葉だけで自己の未来を構成し、その構成された未来と現状との間で事を処理するという傾向も生んだ。


疑似科学批判者に対するビリーバーの反応として典型的なものに、以下のような主張がある。
ニセ科学批判まとめ %作成中 - 「ニセ科学批判」批判 FAQ
「批判の仕方が問題」
「弱い者いじめだ」
「科学は唯一絶対の真理などではない」

脊髄反射的にこうした主張を行っているものもいるが、疑似科学批判に反発するビリーバーその他の中には、これが疑似科学批判に対する批判足りうると本気で考えているらしい人間が少なくない(例:社会学言論の論宅氏あたり*2、*3)。必然的に彼らの議論は、主張の論理性を重視する疑似科学批判者とは、とことんすれ違うのだが、なぜこうなるのか?

山本の言葉を借りるなら、答えは彼らが議論というものを「論争の際でも相手の言葉の内容を批評せずに、相手に対するある種の描写の積み重ねで、何らかの印象を読者すなわち第三者に与え、その印象に相手を対応さすことによって、その論争に決着をつけてしまおうとする」ものだと考えているからだ、ということになる。双方議論をしているつもりでも、両者の「議論」の定義がかけ離れているため、このタイプのビリーバーと疑似科学批判者の議論は、議論の体をなさない。どれだけ論理性の破綻を指摘したところで、当人にまるで自覚がない(というよりもそれで何が問題になるのかを理解していない)のが、このタイプのビリーバーの始末に負えない部分である。
#論理的に反論しようとする人間もいないわけではないが、大抵は自分の言葉に縛られて二重三重に自爆して終わる。(例:OpenBlogの南堂氏や*4*5このブログへの過去の突撃さん達)



◆リテラシーの『格差』

山本は『空気の研究』の最後で、今日のリテラシー議論につながるような内容の考察も行っている。
P.218より
もしこの状態がこのまま進めば、おそらく日本は、その能力を持つ集団と持たない一般人の双方に分かれていくだろう。
というのは、「空気」に基づく行動が、まわりまわっていつしか自分の首をしめて行き、その判断で動き回っているとどうにもならなくなることを、人は、否応なく実感せざるを得なくなってくるからである。戦争直後にこのことはいやというほど実感させられたわけだが、現代でも、公害問題が華やかだったとき、「経団連」をデモ隊で取り囲んで「日本の全工場をとめろ」といった発言に対して、ある経済記者が「一度やらせればいいのさ」と投げやりな態度で言った例にその実感がある。これは、臨在感的把握に基づく行為は、その自己の行為がまわりまわって未来に自分にどう響くかを判定できず、今の社会はその判定能力を失っているの意味であろう。彼の考え方を要約すれば、「ジュッと感じない限り理解しない人たちだから、そんなことをすればどうなるかいかに論証したって耳は傾けない。だから一度やけどすればよい」といった一種の諦めの発言であり、これは戦争中にもある。そしてそれが終わって"空気"が消失すれば、結局また同じことを言うわけである――「日米の生産力・軍事力の違い、石油・食料の予測、小学生でもわかる計算がなぜできなかったのか……」と同じように「全工場をストップすれば一体どんなことになるか、小学生でもわかることがなぜわからなかったのか」と。

ここに出てくる話が、最近の医療崩壊に関するゴタゴタとそっくりだということに気が付くだろうか?結局のところ、我々の社会は少なくとも半世紀以上にわたって、ずっと同じような事を繰り返し続けている。

最近情報リテラシー、メディア・リテラシー、科学リテラシーといった、リテラシーに関する言葉が盛んにもてはやされているが、これだって裏を返せば、こういったリテラシーが希少であること、リテラシーを持たない人が大勢いることを意味している。これらの言葉と時を合わせるように、デジタルデバイド、情報格差、教育格差というデバイド(格差)を意味する言葉が頻繁に登場するようになった事からも、このことは明らかだろう。
これらのリテラシー・論理的思考能力は、訓練次第で誰でも身に着けることができる物であるが、逆に言えば、人は生まれたままの状態では「空気」に支配されたままだということになる。そして山本が指摘するように、科学技術が発達するにつれ、この格差は今後も開く一方であろう。「空気」に支配されている限り、人のリテラシーはいつまでも同じ場所で堂々巡りを続けることになるのだから。


◆「空気」への対処法

最後に、「空気」への対処法について。
「空気」に対処する方法は、現在主に二つ採られている。
一つは「空気」を排除する明示的なルールを持つギルドを形成することで、そのギルド内では「空気」の影響力を極小化するというもの。自然科学の領域なんかがこれに該当する。この方法は自然科学の歴史が示すように、「空気」の排除には極めて効果的であるし、方法論としても完全に確立されている。しかし問題が無いわけでもなくて、人間が関わる以上「空気」の影響を完全に排除することは不可能だし、「ルイセンコ事件」や「進化論裁判」の事例のように、『ギルド外の空気』に対しては対処できないことも多い。
#疑似科学論争は、あるいは「空気」を排したギルドと、外部の「空気」の摩擦であると捉えてもいいだろう。


そこで現在多くの先進国で行われている対処策が、二つ目の「国民全体のリテラシーの底上げ」である。この分野ではアメリカが若干リードしていて、私が今翻訳に携わっている「Science For All American」*6も、アメリカで1980年代に提出された教育改革レポートである。アメリカ最大の学術ギルドAAASは、たとえギルドの中の活動はうまくいっていても、その外の『空気』が野放しでは、結局ギルドの活動に支障をきたす――ギルドの成果を社会にうまく還元できない――ということを進化論裁判などを通じてよく理解していた。ゆえに彼らはアメリカ人の科学リテラシーを根本的に改善するための、76年がかりの教育改革を提案し、実践している。
日本でも海外の取り組みを受けて「Science For All Japanese」というそのまんまなプロジェクトを数年前から始めていたりするが、そのことを知っている人間はほとんどいないというのが実情である。私はそれを是としない人間なので、とりあえず自分で出来る範囲でということでこうやってエントリで触れたり翻訳プロジェクトを進めたりしているが、もともと「空気」の影響力が強い国だけに、先の長い話になるだろうね。




「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3)): 山本 七平
posted by 黒影 at 02:45 | Comment(2) | TrackBack(0) | Books | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
  1. 疑似科学に対して徹底的に科学的アプローチで、あくまで批判的にではなく、いろいろ考慮する人がいるとしたら、周囲の人からどう見えるかとかふと思いました。
    「それが本当ならすごいね。本当かどうか調べてみるよ」
    で、一生懸命調べてる姿を見たら周囲の人からは
    「あの人頑張ってるよなぁ。でもあいつあんなに調べてもらってるのにあの態度かよ」

    こうして新たなる空気を醸成していく姿勢もあっても良いのかなぁと。
    寺田寅彦先生とかの考察はいろいろ面白いです。
    海中から鳴り響く怪音やかまいたち現象の物理的考察などはわくわくしますね。
    (かまいたちは現在では風に飛ばされた小石などによる切り傷が原因とされているようですが)
  2. Posted by キバヤシMK3 at 2008年04月19日 09:34
  3. どう話を持っていけば良いか分からないので、誤解されてしまうかもしれませんが…。
    今日読んだブログで、似た話題があって何というか、インスパイアされる所があったので。
    アンカテ経由で知ったのですが、「最上の日々」というところで紹介されている「ソシオロジー」についての話です。
    http://homepage3.nifty.com/mogami/diary/d0807.html#061
    これと、日本の『空気』との相違が気になる。
  4. Posted by Mamo at 2008年08月02日 20:38
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