2008年01月02日

皇国史観による反進化論

進化論のアンチには様々なカテゴリがある。
海外のメジャーどころとしては、当ブログで何度も紹介しているインテリジェントデザインや創造論があるが、国内ではやや様相が異なる。

統一教会の渡辺センセなんかはキリスト教原理主義的なID論と大差ないのだが、産経新聞や中川センセあたりは根っこにあるものが違うのだ。
#無論大元までたどれば同根なのだろうが。

そんなわけで、今日は日本生まれの反進化論、皇国史観から来る反進化論について紹介してみる。
まあ紹介するといっても私自身はそれほど詳しくないので、すでにいろいろ調べている人の紹介だが。

 
 
 
戦前、今で言う皇国史観が大手を振っていたころの国学者による反進化論については、望楼夢の長谷川さんが取り上げられている。
これを見ると、中川センセあたりの言説が完全に当時の主張のコピーであることがよく分かる。

日夜困惑日記@望夢楼: 「動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか」
これ〔『古事記』及び『日本書紀』で、世界創造の時に最初に神が出現した、とされていること〕はすこぶる重要な点です。なぜかといえば、我々が動物から進化したとするか、または野蛮な人間から発達したとするか、いや発達ではなくて、堕落してきたものとするか、それとも神から出たものとするか、その出発点の相違は、その民族の宗教に、道徳に、政治に、重大な影響があるからです。簡単に進化論をうけとる人は、人は猿から発達したようにいいやすいのですが、猿はいつまで経っても猿です。動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか。猿は猿、人は人、別のものです。それを誤解して、猿こそ我々の先祖であるとすれば、祖先崇拝は出てきますまい。先祖の恩徳を感謝する厳粛な祭は行われますまい。我々日本民族は、その祖先は神であったと信じ、敬い、そして祭ってきたのです。すなわちその生活は、奉仕の態度であって、「つつしみ」「うやまい」を正しいとし、「おごり」「たかぶり」を善くないとしてきたのです。

――平泉澄『物語日本史』(上)(講談社学術文庫、1978), p. 41

日本の神道は森羅万象全てに八百万の神を見出すものだと思っていたんだけどね。
皇国史観がいかに神道をゆがめたかはある程度知っているつもりだったけど、こりゃひどいわ。
彼の言説をそのまま受け取るなら、彼は「人以外の存在は敬意を表する価値なぞない、ヒトの始祖たる神以外なぞ知るか」と言っているも同じであって、私にはこれこそ傲慢以外の何物でもないように見える。
彼の思想を一言でまとめるなら、「天孫に非ずんば人に非ず」となるか。


日夜困惑日記@望夢楼: 「我々日本人の先祖は猿だつた、といふことで、満足が出来るか出来ないか」
 今日のマルクス学説の流行は明かにダーウヰンの進化論により補助せられ、而〔しか〕して〔…〕科学といふことに一種の魔力を感ぜしめられて居る。多くの学者はダーウヰンの立てた進化論を無批判的に真理なりと考へて居る。嘗〔かつ〕て亜米利加〔アメリカ〕に於てダーウヰンの進化論を教へることを禁じた時に、日本の学者は、亜米利加のやうな文明国がそんなことをするのは、甚〔はなは〕だ不似なことだと述べて居つたのを記憶して居る。しかし亜米利加が進化論を禁止したことは、私の立場から言ふと尚〔なお〕当然のことゝ言はなければならぬ。何故ならば、簡単に進化説を信じて居る者から言ふと、我々の先祖は猿、或〔あるい〕は一種の猿のやうなものであつたといふことになる、我々日本人の先祖は猿だつた、といふことで、満足が出来るか出来ないか。日本人の精神からは我々の先祖は神であつたといふことは言へるかも知れぬが、猿だつた、或はゴリラに似たやうなものであつたといふやうな馬鹿なことは言ふ者はない。蓋〔けだ〕し進化論とは何を意味するか。其の批判がなくてはならぬ。

 進化論とは蓋し犬だの猫だのといふ抽象的の概念を取扱ふたものである。例へば犬だの、猫だのといふ沢山の生物を概念的に取扱つて、是と是とは能〔よ〕く似て居る。是と是とも能く似て居る。それらを並べて見ると、簡単なものから複雑なものになるといふのである。しかるに行灯〔あんどん〕、洋灯〔ランプのこと〕、電灯、ネオンサインが茲〔ここ〕にあるとして、此の行灯を幾ら叩いて居つても洋灯にはならない。又、洋灯を幾ら叩いて居つても電灯にはならない。電灯を幾ら叩いて居つてもネオンサインにはならぬ。洋灯が出来たから行灯が無くなつたかといふと、依然として行灯はある。電灯が出て来ても、洋灯は依然として洋灯である。ネオンサインが出て来ても電灯は依然として電灯である。而してネオンサインは永久にネオンサインである。即ち、日本人は結局日本人、初めから日本人であつて、終り迄〔まで〕日本人である。他所から来たといふことは、所謂〔いわゆる〕学者の空理空論から言ふのであつて、日本人は何所〔どこ〕迄も日本人である。唯之〔これ〕を室内照明器といふ概念に統一することによつて、初めて洋灯が電気灯になり、電灯がネオンサインになつたといへるのである。進化論を真理として考へる唯物史観論者は、行灯に代へるに洋灯を以てし、洋灯に代へるに電灯を以てする単なる置替へに過ぎない。だから又、左翼派の進化論を考へて居る人は具体的なる概念進化といふことを其の立場とする弁証法に対して、唯物史観的のものを置替へて居るに過ぎない。室内照明器といふ概念の内に於てのみ、初めて行灯が洋灯になり、洋灯が電灯になつて来るといふ止揚の働きが出て来ることに気付かぬからである。抽象的概念の立場からすれば、皆単なる置替へに過ぎなくなる。しかも置替へをして、それが真理なりと考へて居るのであるが、故に置替へるにこれを以てするだけで、その間に少しも進化といふことがない。ダーウヰンの頭は立派なものであるが、其のダーウヰンの頭を其の侭〔まま〕持つて来て無批判に進化論はかくの如きものと考へるからいけないのである。そんな進化論は、所謂軍学者が見台〔書見台〕を叩いてやつて居るのと、何等差違のない抽象的知識にすぎぬのである。

――紀平正美『日本精神と弁証法』(思想問題研究会〔編〕『紀平正美 日本精神と弁証法 安岡正篤 日本精神の根本』(青年教育普及会、1932)所収、pp.32-34)。

これも同類の言説。
典型的なわら人形論法を展開しており、進化論理解のかけらも感じられない。

比較のために以前の産経の記事も載せておこう。
幻影随想: インテリジェントデザイン理論(ID理論)にはまっちゃった産経新聞
進化論偏向は道徳教育にマイナス 日本の識者も主張

 「人間の祖先はサルだという教育は、生物の授業の仮説ならともかく歴史教育や道徳教育にはマイナスだ」「進化論はマルクス主義と同じ唯物論であり、人間の尊厳を重視した教育を行うべきだ」という議論は日本でも多くの識者から主張されてきた。

 マルクス主義の影響を最も強く受けているとされる日本書籍の中学歴史教科書は平成十三年度使用版まで、見開き二ページを使ってダーウィンの進化論と旧約聖書の創世記、戦前の歴史教科書の日本神話を対比させて聖書や神話を否定的に受け止めるよう誘導していた。

 このような教育に対し、日本神話の再評価を訴えている作家・日本画家の出雲井晶さんは「道徳の上では人間は人間、獣は獣。人間を獣の次元に落とす進化論偏向教育が子供たちを野蛮にしている。誰が日本人を作ったのかというロマンを教えるべきだ」と話す。

 中川八洋筑波大教授は著書『正統の哲学 異端の思想』でダーウィンを批判。創造論、進化論の双方が非科学的だとしても「文明の政治社会の人間の祖先として『神の創造した人間』という非科学的な神話は人間をより高貴なものへと発展させる自覚と責任をわれわれに与えるが、『サルの子孫』という非科学的な神話(神学)は、人間の人間としての自己否定を促しその退行や動物化を正当化する」と論じている。

較べてみるとよく分かるが、論理が80年前からまるで進歩していない。
というよりも自分たちの頭の中身が完全に時代遅れになっていることに気付いていないのか。
今更こんなのに引っかかる人間なぞそうそういないとは思うが、一応アラートも兼ねて取り上げておくことにした。


◆関連記事
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この記事へのコメント
  1. 平泉澄というのは唯物論の人なんですね。
    我々の先祖が猿やその他の動物と共通だと敬う心を失ってしまうというわけですが、まあだいたいの日本人は苦難の歴史を生き抜いたことに感動したり興味を覚えたりすると思うんですけど。
    ちなみにこの人の皇国史観とは何かと言えば、君子に徳が無ければ放伐しても良い、つまり暴力革命もOKというもう一つの唯物論マルクス・レーニン主義と同じ原理のものです。徳がない=無能な君主は尊敬する気にならないと大声で言ってるようなものです。「先祖が動物」と同じです。実際にクーデターまで行きましたから怖いものがあります。
  2. Posted by SLEEP at 2008年01月02日 17:02
  3. >というよりも自分たちの頭の中身が完全に時代遅れになっていることに気付いていないのか。

    進歩否定が三流どころの「保守の論客」(中川とか)の売りですからね。一貫していてけっこうなことじゃありませんか。そのまま取り残されといていただきましょう。
  4. Posted by やまき at 2008年01月09日 12:33
  5. >SLEEPさん
    >我々の先祖が猿やその他の動物と共通だと敬う心を失ってしまう
    こういう考え方って、
    人間>>越えられない壁>>動物
    という優越感によって自尊心を支えている人間でないと到達しないと思うんですけどねえ。
    それこそが「おごり」「たかぶり」であろうにと思いました。

    >やまきさん
    >。そのまま取り残されといていただきましょう。
    同感です。
  6. Posted by 黒影 at 2008年01月19日 01:46
  7. 以前にも少し書かせてもらいましたが、第二次大戦前後ほど怪しげな人種論や民族間の優越といったようなトンデモ話が世界規模で幅を利かせた時代はなかったと思います。
    ドイツ人はユダヤ教徒が裏切ったから仏英に負けたと信じ、それが虐殺の原因です。実際はユダヤ人も良きドイツ人として戦ったわけですが。またソ連初め社会主義国では資産家は止揚される存在とされました、止揚というのはわかりにくいんですが要は殺すか収容所行きです。日本のアジア主義も自分らは優性種だからアジアを指導して欧米に勝とうと言いますから凄いものがあります。今アジア重視外交とか言ってる連中はこれの同類ですからチベットで虐殺があっても無視ですね。
    要は俺はオマエラよりすぐれてる、理由はXXだ!という発想が元凶なんだと思います。
  8. Posted by SLEEP at 2008年01月19日 18:53
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「皇国史観における反進化」に寄せて
Excerpt: こちらのページで日本における進化論の反応が俯瞰できたりします。 あんまり行き過ぎた生体科学もちょっとなーと思うのですが、この ように進化論自体があり得ないのだ、とする人たちもちょっとなー と思うので..
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Tracked: 2008-01-03 13:22