・100匹目のサルの嘘
その後この話の発祥地である串間町に「100匹目のサル」の記念碑が作られており、
さらに「百匹目の猿まつり」なんてものまではじめちゃったということを聞いた。
・思わず苦笑した話
まあ単に町興しの為に利用しようというのであればそれほど目くじらを立てることはないのかもしれない。
しかし「100匹目のサル」を「おとぎ話」でなく「事実」のように扱われては困るのだ。
そんなこんなでちょっと前に「愛・蔵太の気ままな日記」の愛・蔵太さんが串間町の掲示板に書き込みに行かれた。
書き込み内容はこちら。→「百匹目の猿まつり」なのですが
しかし返ってきた返事は…
・Re:「百匹目の猿まつり」なのですが
・Re:Re:Re:「百匹目の猿まつり」なのですが
・百匹目のサル現象
(via 愛・蔵太の気ままな日記)
いや、なんと言うか、青汁に納豆を混ぜて一気に飲み干したような気分だ。
特に真ん中の自称「百匹目の猿まつり」実行委員会のメンバー山猫さんとやらのが一番きつかった。
・Re:Re:Re:「百匹目の猿まつり」なのですが
百番目の申氏に教えてもらい、やりとりを拝見しました。「百匹目の猿まつり」実行委員会のメンバーの「山猫」です。
azemichiさんのおっしゃるように、まずは事実を確認したいと思います。
(1) 1953年頃、串間市の幸島で、ニホンザルによるイモ洗い行動が発生し、それが群れに広がった。
(2) 数年後、大分県の高崎山の猿の間にもイモ洗い行動が観測された。
(3) ライアル・ワトソン氏がこの2つのイモ洗い行動に関連性を見出し、著書「生命潮流」にて「100匹目のサル現象」として説明した。
(4) その後、ケン・キース・ジュニア氏の「百番目のサル」、船井幸雄氏の「百匹目の猿」などにより、「百匹目の猿現象」の認知度が高まっていった。
(5) 河合雅雄氏は、2つのイモ洗い行動に何の科学的関連性も認められないとコメントしているらしい。(ネットの情報)
まず、「生命潮流」を読めばわかることですが、ワトソン氏は特に騒ぎ立てるほどのような嘘はついていません。「100匹目のサル現象」の説明に際しては、「伝承の断片から推すしかない」として「詳尊を即興で創作する」とあらかじめ断っています。(ただ、表現に「研究者は物笑いになるのを恐れて事実の発表を控えている」などのハッタリが見られ、筆がすべったかなという印象は受けます。)
また、河合雅雄氏の論文を参考文献として挙げているのは(1)の記述に対してであり、そこには何の脚色もありませんので、それを嘘だとする「噂」も的はずれです。
もちろん、幸島と高崎山の猿たちの2つのイモ洗い行動について、単なる偶然と考えるか、ワトソン氏のように何らかの相関性があるとみるか、あるいは泳いで渡った猿により伝わったと考えるか、いろいろだと思います。そして、「百匹目の猿現象」は事実からインスパイアされた仮説ないしは思想であり、正しいことも間違っていることも因果律では証明できません。ですから、それを嘘とか都市伝説とすること自体、無理があります。(たとえば、ユングのシンクロニシティを嘘とか都市伝説という人はいませんよね。科学的か非科学的かという論点なら別ですが。)
azemichiさんのおっしゃる根拠ある資料というのが何を指すのかわかりませんが、愛・蔵太氏が引用しているようなウェブページのことなら、あまり鵜呑みにしないでください。
一般に、個人の発信する情報に対しては、過信せず慎重に扱うべきだと思います。インターネットも、ブログやウィキの普及によって情報の発信・共有がしやすくなった一方で、主観的な情報の氾濫が時折見られますから。
なお、昨年、実行委員会でも、ネット上にこうした「百匹目の猿現象」を否定するようなページがあることが議題として取り上げられました。しかし、「百匹目の猿現象」を「希望の根拠」として様々な分野で頑張っている人への応援歌として、その物語が始まった串間から発信することに意義があるとして意見がまとまり、ちょうど1年前の今日、幸運発信イベントとして実行した次第です。
最後に、私は理論武装をしようという気も、論争をしようという気も毛頭ありません。今回は、読んでいる方々に誤解があるといけないと思い、あえて長々と書き込みをさせていただいたことをお断りしておきます。
気力が抜けるようなヘボヘボな内容だが、とりあえず一つずつ書いて行こうか。
まずこれ
まず、「生命潮流」を読めばわかることですが、ワトソン氏は特に騒ぎ立てるほどのような嘘はついていません。
ここからして既に前提条件が間違っている。
ライアル・ワトソンの「生命潮流」から問題の箇所を抜き出してみよう。
ニホンザルの行動研究が多くの野生のコロニーで三0年以上にわたって続けられている。九州の東岸から少し沖へ出た幸島という所にも隔離されたコロニーがあるが、ここで一九五二年のこと、人間がサルに進化上の適正な刺激を与えることに成功した。まず群の行動範囲のある場所に食糧ステーションが設置された。
ふつう若いサルたちは母親から食餌の習性を学び、母親は何をどう食べるのかを手本として示しながら教える。ここのサルたちの食行動は一00種を越える植物の芽や蕾、果実、葉、若葉、樹皮をもとにした複雑な風習に発展していた。そのため新たな人工食物を与えたとき、サルたちは広範囲の嗜好を示した。ところが砂や砂岩にまみれた生のサツマイモを与えたところ、それにうまく対処するヒントは広いはずのその嗜好レパートリーのどこにも見当たらなかった。
そのとき、一種のサルの天才とも言えるイモという名の一八ヶ月のメスが問題を解決した。サツマイモを水流まで運んでいって食前に洗うことを思いついたのである。サルの世界で言えば車輪の発明にも匹敵する文化革命だった。そこには抽象化、概念の同定、そして環境内の数種の基準の意図的操作が関与していた。しかもその社会の風潮に逆行して、若いイモが母親にまんまとこのトリックを教えてしまったのである。遊び仲間たちにも教え、そのサルたちがこれを受けて母親たちに伝えた。この新文化は少しずつ、一歩一歩、コロニー全体に拡がっていったのだが、日照時間を徹して常時見張っていた観察者たちは新たな改宗者が順次増えていく様子を手にとるように見ることができた。一九五八年までには若いサルたちが全員、汚れた食物を洗う習慣を身につけたが、五歳以上の成熟した猿でそうしていたのは子供たちから直接に真似しておぼえたものに限られていた。
異常が起こったのはそのときである。いかんせんこの時点までの研究の詳尊は明白なのだが、残りの話は個人的な逸話や霊長類研究者の間に伝わる伝承の断片から推すしかない。というのも、研究者たちでさえおおむね本当に何が起こったのかは定かではないのだ。真偽のほどを決しかねた人びとも物笑いになるのを恐れて事実の発表を控えている。したがって私としてはやむなく、詳細を即興で創作することにしたわけだが、わかる範囲で言えば次のようなことが起こったらしい。
その年の秋までには幸島のサルのうち数は不明だが何匹か、あるいは何十匹かが海でサツマイモを洗うようになっていた。なぜ海で洗うようになったのかと言うと、イモがさらに発見を重ねて、塩水で洗うと食物がきれいになるばかりかおもしろい新しい味がすることを知ったからである。話を進める都合上便宜的に、サツマイモを洗うようになっていたサルの数は九九匹だったとし、時は火曜日の午前一一時であったとしよう。いつものように仲間にもう一匹の改宗者が加わった。だが一00匹目のサルの新たな参入により、数が明らかに何らかの閾値を超え、一種の臨界質量を通過したらしい。というのも、その日の夕方になるとコロニーのほぼ全員が同じことをするようになっていたのだ。そればかりかこの習性は自然障壁さえも飛び越して、実験室にあった密閉容器の中のグリセリン結晶のように、他の島じまのコロニーや本州の高崎山にいた群の間にも自然発生するようになった。
「100匹目のサル」の話のキモの部分は第4段落、「異常が起こったのは〜」からなのだが、
ここから先がまったくのデタラメ、よく言ったところで彼の創作話に過ぎないのである。
当然彼の話に根拠など存在しない。
ここが嘘っぱちという事はつまり「100匹目のサル」の主張には何の根拠もないということだ。
河合雅雄氏の論文を参考文献として挙げているのは(1)の記述に対してであり、そこには何の脚色もありませんので、それを嘘だとする「噂」も的はずれです。
などと書いているが、これこそ的外れもいいところ。
河合氏の論文には(1)の部分についての記述しか存在しない。
それにもかかわらず、河合氏の論文を下敷きにありもしない創作の第四段落以降「100匹目のサル」の話を付け加えたから嘘吐きだと言われているのだ。
以下の2点の出来事、これは確かに正しい。
(1) 1953年頃、串間市の幸島で、ニホンザルによるイモ洗い行動が発生し、それが群れに広がった。
(2) 数年後、大分県の高崎山の猿の間にもイモ洗い行動が観測された。
しかしライアルがこれに付け加えた創作の部分と解説、これは嘘っぱちもいいところだ。
話を進める都合上便宜的に、サツマイモを洗うようになっていたサルの数は九九匹だったとし、時は火曜日の午前一一時であったとしよう。いつものように仲間にもう一匹の改宗者が加わった。だが一00匹目のサルの新たな参入により、数が明らかに何らかの閾値を超え、一種の臨界質量を通過したらしい。というのも、その日の夕方になるとコロニーのほぼ全員が同じことをするようになっていたのだ。そればかりかこの習性は自然障壁さえも飛び越して、実験室にあった密閉容器の中のグリセリン結晶のように、他の島じまのコロニーや本州の高崎山にいた群の間にも自然発生するようになった。
臨界の数値などどうでもいいが、突然の集団全体へのイモ洗い習慣の伝播など一度も起こらなかった。このイモ洗いの習慣がゆっくりと集団に広がっていったことは事実なのだが、決して集団の全員がイモを洗うようになることはなかったし、ましてや突然のイモ洗いの広がり、距離を越えた伝播など起こらなかったのだ。
幸島でイモ洗いが観察されるようになった後、他の場所でもイモ洗いが観察されるようになった。これは事実である。
しかしその裏に、ライアルが自説に都合が悪いからと語らなかった隠された事実がある。
それはこの当時幸島のサルたちは霊長類研究のモデルケースであり、国内はもとより世界からも注目を浴びていたということ、幸島の実験でサルがイモを好んで食べることが分かってから、他所でもサルのえさにイモが与えられるようになったということ、そして時間さえあればどこでも一部のサルはイモを洗うことを見出すということだ。
サルがイモを食うというのは、すなわちサルにえさとしてイモが与えられるようになるということ。
イモが与えられて十分な時間が経てば、賢いサルが現れてイモ洗いを思いつくこともある。
「僕のおしゃべり 01.05.15 Vol.19 百匹目のサル」から河合先生の話を少し引用させてもらおう。
「僕はねぇ、人間の文化がなんでも伝播だとは思わないんだよ。文化は離れた地域でも同時発生する、そういうものなんだ。たとえば魚を捕るための道具があるでしょう。川上に向かって大きな口を開けておいて、川下は狭くして水しか出ていかないようにしたもの。あれなんか世界中にあるけど伝播したのではなく同じような物を同時多発的に人は考えついたんだね。地域によって少しずつ違いはあるけど、考え方はみんな同じものだ。そういうことがサルで起こることは珍しいけど、そういうことなんだろうねぇ」
人間でもサルでも、持てる想像力なんてそんな大した幅じゃなくて、
場所は違えど同じような状況におかれた場合に考え付くことは似通っているということなのだろう。
サルたちは初めてイモをえさとして与えられると、どうやってそれを食べたらいいか試行錯誤を繰り返す。
砂まみれのイモを与えられた場合、それをおいしく食べるために考え付くことはどこでも変わらなかったということか。
ついでに「懐疑論者の祈り―百匹めのサル hundredth monkey phenomenon ―」からも引用させてもらう。
``百匹めのサル''という表現は、1950年代に、サルを使った実験 から名付けられた。この概念は、ライアル・ワトソンがその著書生命潮流 Lifetide で主張したものである。彼は、あるサルがほかのサルにイ モを海水で洗うのを教えると、そのサルから別のサルへとイモ洗いは伝播し、 すぐに島に住むすべてのサルが、イモを海水で洗うようになる、と述べている。それまでは、どのサルもイモを洗ったりしなかったのに、である。島に 住む百匹めのサルがイモ洗いを教わると、不思議なことに、物理的にかけ離 れていてイモ洗いの習慣を知るはずのない、別の島のサルまでが、突然、しかも自発的に、イモ洗いをはじめたのである!これはサルがテレパシーを使ったせいなのか、それともワトソンの猿芝居なのだろうか? これはなかなか気の効いた話だが、事実ではない。少なくとも、空間的に 離れていて接触のない個体の間で、文化的要素が自発的に伝播するというのは、事実ではない。別の島にも、すでにイモを洗うサルがいたのである。あ るサルがイモ洗いをはじめて、すぐに別のサルもそれに加わったのである。 その上、観察後6年を経過しても、すべてのサルが海水でイモを洗って土や砂 を洗い流すことにメリットを見出したわけではないのである。ライアルは神秘的な伝播を、事実の一部から作り上げたのにすぎない。別の島に住むサルの意識が、イモを洗うという一段高い意識段階に昇ったというのは、ウソで ある。
ついでにライアルが語ったグリセリンの話も当然というか嘘っぱちである。
懐疑論者の祈り―グリセリンの結晶―
つまりこの短い文章の中ですら、ライアルは3つもウソをついていることになる。
一つ目は「ある閾値を超えることで突然集団全体に何かが広まった」というウソ。
二つ目は「距離を越えたテレパシー的な伝播が起こった」というウソ。
三つ目は「グリセリンの結晶化の話」のウソ。
そしてこの3つがウソとなるとライアルの主張はまるで体をなさない。
これでなんで
まず、「生命潮流」を読めばわかることですが、ワトソン氏は特に騒ぎ立てるほどのような嘘はついていません。
なんていうことが出来るのか私には理解不能だ。
山猫氏はこんなことを書いている。
「百匹目の猿現象」は事実からインスパイアされた仮説ないしは思想であり、正しいことも間違っていることも因果律では証明できません。
事実に基づかない単なる空想なら「現象」などと呼ぶのは是非とも止めて頂きたいところだ。
どうせなら「100匹目のサル『伝説』」と読んでいただきたい。
そうすればこんな風に目くじらを立てる必要もなくなるから。
なお、昨年、実行委員会でも、ネット上にこうした「百匹目の猿現象」を否定するようなページがあることが議題として取り上げられました。しかし、「百匹目の猿現象」を「希望の根拠」として様々な分野で頑張っている人への応援歌として、その物語が始まった串間から発信することに意義があるとして意見がまとまり、ちょうど1年前の今日、幸運発信イベントとして実行した次第です。
私にはこれなど、「騙されいることに気が付かなければ幸せでいられるのよ」といっているようにしか読めない。
もう大分疲れてきたが、最後にこれだけは書いてしまわなければいけないことがある。
なぜ100匹目のサルや水の伝言のような似非科学をこうまでして批判するのか。
のんきな方々は「こんなことがあったらいいなぁ」なんて考えているようだが
こうした話は広がることを放置しておくと容易に詐欺師共の飯のタネに化けるのだ。
「水からの伝言」にしろ、この「100匹目のサル」にしろ、すでにマルチ商法や健康詐欺の看板に大体的に利用されている始末。
(というか水からの伝言を書いたのは元からそっちの人間だったか)
この手の話を無批判に垂れ流すというのは詐欺師の片棒を担いでいるも同然ということを理解すべきだ。
◆関連エントリ
・100匹目のサルの嘘
・思わず苦笑した話−100匹目のサルの町−
・100匹目のサルの町・続報
・「100匹目のサルのウソ」はいかにして暴かれたか
・100匹目のサル・閑話休題 ―2つの100サル物語―
・幸島のサルのデータを読む
・忘却からの帰還: 「百匹目の猿」の嘘を暴いた"The Hundredth Monkey Phenomenon"by Ron Amundson
・忘却からの帰還: 「百匹目の猿」の原論文には百匹目の猿はいない
【疑似科学・ニセ科学・オカルト・トンデモの最新記事】
そういえば、昨日TV見てたら、(↓)なものがありました。
( http://www.osamanoidea.com/W080550.html )
もう大手家電メーカーはマイナスイオンなんて言ってないと思うけど・・
(フジの『トリビアの泉』の「ガセビア」のコーナーでマイナスイオンも取り上げてくれないですかね・・でも同じフジの『あるある大事典』でマイナスイオン昔思い切りやってたような気もするから無理かな。)
100匹目のサルのお話ですが、「生命潮流」の引用の中で、くだんの第4段落、【詳尊を"即興で創作"することにしたわけだが・・】ってしっかり書いてある時点でアウトだと思うんですが(笑)
原文に何て書いてあるのかは知らないけれども。
まぁ「100匹目のサル"物語"」であれば目鯨立てる必要もないのかもしれませんが、この話、私は今まで知らなかったですけど、ネットで検索すると随分あらぬ方向にまで広がり見せているようですね・・・擬似化学→擬似宗教、みたいな。
「光合堀菌」よりは穴が少ないみたいですが(逆にその方が危ないか)
お久しぶりです。
マイナスイオンも一時は随分はやりましたよね。
かなりでかい家電会社まで明後日の方向に突っ走っていた記憶が。
まあ血液型で人事考察する会社よりはマシかもしれませんが。
>まぁ「100匹目のサル"物語"」であれば目鯨立てる必要もないのかもしれませんが
おっしゃるとおり、フィクションであることを明確にしてくれたらいいんですけどね。
>「光合堀菌」
これですね
http://blog.livedoor.jp/iorindiary/archives/28580970.html
http://khon.at.infoseek.co.jp/chosha/h144.html
朝日も引っ掛けられたようです。
http://news.www.infoseek.co.jp/search/story.html?query=%96x%91%E3%95%5C&q=27fuji58605&cat=7
微生物やってる人間としてちと見過ごせないので、また取り上げてみますか。