特に学校の授業という奴が嫌いで、たまに興味を引かれた時以外は寝ていたりボーっと窓の外を眺めていたり内職に励んでいたりというかなり不真面目な生徒だった。
確か教室の後ろの方の席だったのをこれ幸いと授業中に小説や漫画を読んでいたこともあったな。
家でやる勉強も精々宿題とテスト前の復習くらいで、塾にも行った事が無い。
昔から自分の好きなことにはいくらでも集中できるけれど、興味の無いことにはその10分の1も力を注げないという、ある意味とても自分に正直な性格なのだ。
これで興味関心の範囲が狭かったらそれこそドロップアウトしていたのかもしれないが、幸い私の興味関心の範疇には「科学技術」という奴が含まれていた。
さらに私は本が好きで、とにかく面白そうな本は何でも端から読んでみたくなる性格だった。だから専門書はさすがに無理でも、一般向けに科学を解説した本はそれこそ小学生の頃から貪るように読んでいた。
かなりの乱読ではあったが、年間100冊の読書を15年間に渡って続ければその知識の蓄積はかなりのものになる。
この知識の貯金が私の助けになってくれたことは数知れない。
物心付く頃から毎週末図書館に連れて行ってくれた親には感謝しなければならないな。
当時は何も考えていなかったが、図書館に通い本を読む習慣が無ければ今の私は無かっただろう。
今から思えば、私の勉強の仕方はかなり特殊な部類に入っていたと思う。
大量の読書で出来た土台をそのまま利用して、他人が土台の構築から入っていくところをいきなりすっ飛ばして建物の建築に取り掛かれたからだ。
当時の私は周囲よりも理解が早い自分に気付いて「俺って実は勉強できるんじゃね?」とうぬぼれていたが、何のことは無い、周囲とは違った形で土台部分を先に築き終えていたことに気が付いていなかっただけだ。授業の代わりに読書で補っていたわけだな。
この方法は手当たり次第海に礎石を放り込むような物なので、決められた区割りで土台を積み上げていく普通の勉強法に較べると効率はかなり悪い。だから特定の分野を深く学ぶときには当然不向きだ。
しかし塵も積もれば何とやらで、10何年分もの蓄積があれば大抵の場所には既にある程度の土台が出来ていることになる。そしてこれが何より肝心なのだが、この方法は私にとって趣味の延長でしかないので勉強しているという意識がないのだ。古今東西の文学作品を読めば地理歴史と同時に語学や古典の教養も身に付くし、理系の教養本を読んでいれば教科書以上に詳しい科学知識が自然と頭に入った。
そして学校で勉強するときには既に土台があるので理解も早いし、場合によっては授業を受ける必要すらなかったりする。
既に必要な知識が揃っているのにそれがどう関係しているかだけが分かっていないような場合に、先生の一言で全てがあるべきところに納まる場合もある。
これまで無意識に積み上げてきた礎石が、何かの刺激をきっかけにして急速に相互にリンクし一つの体系にまとまって行く、あの頭の中をスパークが駆け巡って行く感覚は一度感じてしまうと癖になるw
今まで意味を持たなかった記号が知識に変わり、自己組織化して知識体系に変化する。まるで目の前が急速に開けていくような感覚。
Eureka!とアルキメデスが叫んだ気持ちも理解できそうなあの知的興奮は、単純に論理体系を一から順に学んで行くのでは得がたい。
そんなわけで私は今も相変わらず自分の流儀を通している。
(さすがに大学に入ってからはちゃんと体系だった勉強もしてるけどね。)
ただこのやり方に問題があるとしたら、周囲からまるで勉強していないみたいに思われることかな。
私にしてみればつまらない授業なんて本でも読むか寝ているほうがましなんだが、学部生の頃にある講義で真面目にノートを取る友人を横目に寝てばかりいたら、テストの結果彼が落ちて私が受かってしまった事があった。必要なのは単位だけだったし聞く必要がないと思ったから寝てたんだが、一月くらい「何でお前が受かって俺が落ちるんだ」と文句を言われたなぁ。既に知識持ってたからだってば。
天賦の才能を持つ一握りの人間ならいざ知らず、凡人の能力は過去どれだけのインプットを蓄積してきたかによって決定される。
別に知識に限らず何でも同じだとは思うが、これが現在の私の信念。
凡人である私は過去の積み重ねを無駄にしないため、そして今後に生かすため、とりあえず月に2万ずつ本につぎ込む事にしている。そろそろまた新しい本棚買わないとな。
から、
<意味とても自分に正直な性格なのだ。
まで、すごく共感できます。
読んでいて「えーと、貴方は僕ですか?」と言いたくなりました(笑)
僕は、父が普通の家庭と比べて桁違いの蔵書を残してくれたので、
苦もなく本に親しむことができました(うちはブルジョアではありません、念のため)。
多分、僕と同世代で夏目漱石を「夏目漱石全集」で読破した奴はいないと思います。
僕の場合ちょっと違うのは、中学辺りから、「自分勉強できるんじゃね?」と勘違いし、
そこで本当に勉強のサボり癖がついたことですね。
法律を志す現在に至って、そのサボり癖さえなければ東大受かって司法試験ぐらい現役合格してたよ、と思うこともたまにあります(笑)
それから、いわゆる「読書感想文」に指定されるような王道は大抵小学生までに読破してしまっていたので、
周りの読書のレベルに合わされるのがつまらなくなって
土台たる堅い内容の本を読むことすら満足にやらなくなってしまったのもまずかった。
中学・高校の頃は、時代小説かあかほりさとるあたりのラノべばっかり読んでましたね。
でも、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、
大学に入ると、本を読まないことで脳がなまるような感覚にとらわれるようになりました。
今では、大学生協で安く買えるうちに、なるたけたくさん本を読もうと思い、
気になったものは迷わず買うことにしています。
専門外の科学系の本に興味が向くようになったのは、何を隠そう、このサイトの影響です。
ありがとうございます。
余談ですが、「今の学生は新聞を読まない」と言われるたびに、言う側も言われる側もレベル低いなぁと感じるのです。
僕にとって新聞はストレートニュースを仕入れるのと活字を読む能力を落とさないためのものでしかないので。
何でみんなそんなに本を読まないんだろうと不思議なんですよねぇ。面白いのに。
本を読む習慣が付くかどうかは親の影響が大きいですよね。
でも同じ家で育ったはずの弟は全然本を読まないので個人の資質も当然あるのかな。
某運び屋風に言うならば「面白れぇってのは大事なことだぜ」ということなのでしょう。
ちなみに私の場合「勘違い」のピークは高1でした。
高校受験で有名な進学校に受かったことで天狗になっていたのです。
まあテストの成績がテキメンに下がってすぐに鼻をへし折られましたけどw
年間100冊ってすごいですね。
僕には到底できません…と言いたいところですがやってみます。ていうかやります。
科学、数学、物理……たくさん読みまっす
自分も勉強嫌い&出来ません。小学校から居残りは絶対中学にも入っても1か2がごろごろ補習課題を沢山出され、しかしやり方がわからないだのしゅ出来ないことが多々ありました。高校に行っても変わらず本当に駄目です。本も読まないし勉強も出来ない、この先不安で
ただ、人間として一番大事な感性が育たなかった
お気の毒な事である
本当の学問とは
知識の山の上に築かれるのではなく
豊かな感性の上に築かれるのである
100冊読んだ事など自慢していないで
三年ぐらい読書から離れて欲しい