先日こんなエントリを読んだ。
リスク社会における公共的決定2――「トンデモ」批判の政治性と政治の未来 - on the ground
似たような感想の人が他にもいたけれど、私のこのエントリに対する感想は、
ネタなのか本気なのか、天然なのか釣り針なのか判断に迷うなあ、というもの。
1.に概ね同意し、2.でお茶を吹き、3.でネタなのか本気なのか判断に迷ったというのが正直なところだろうか。
元エントリでは「科学」という言葉をかなり特殊な使い方をしているので、
自然科学系の人は多分ツッコミの一つや二つ入れたくなるだろうけれど、
問題意識そのものは多少分かるだけに、面白いとは思う。
とりあえずいくつか見ていこうか。
2.ナイーブな実証主義の問題点
残念ながら、いわゆる「ニセ科学」や「俗流若者論」などの「トンデモ」論への批判論の(全てではないにせよ)少なくない部分にも、「立場」と「利害」の区別への無理解が見受けられます*5。エビデンスを重視して議論を進めようとする姿勢そのものは良いのですが、実験科学ないし計量科学的な「実証性」の多寡を比較することによって(のみ)異なる「立場」の優劣を判断しがちな風潮が強いことには問題があります。そもそも私の考えでは、科学とは実験や計量によってのみ成り立つものではありません*6。
いきなりの自然科学否定に突っ込みたくなるけれど、最後の一文はスルー推奨。
しかし、ひとまずその点については措くとしても、「実証性」ばかりを秤にかけて議論を決しようとするのは、「立場」に固着して「利害」を無視する不毛な対決主義の典型であり、相手の問題意識に付き合うことを始めから拒否した外在的批判として、あまり望ましいものではありません*7。「真実」の共同探究としての科学は、誰かが勝って誰かが負けるゼロサム的な勝負ではなく、全体を前進させるようなwin-winの合意を志向するものです。ここから、「科学的」であることを標榜しがちな対決主義的「トンデモ」批判論の二重の非科学的傾向を指摘することができます。
私はここで堪えきれずにお茶を吹き、はてブで苦言を頂戴したけれど、「真実」の〜以降の文章はやはり釣り針なのでスルー推奨。
とりあえず釣り針なのか何なのかよく分からない部分を取り除いてみる。
これで余計な部分が無くなり論旨も分かりやすくなる。
多分これならすんなり読めるはず。
いわゆる「ニセ科学」や「俗流若者論」などの「トンデモ」論への批判論の(全てではないにせよ)少なくない部分にも、「立場」と「利害」の区別への無理解が見受けられます*5。エビデンスを重視して議論を進めようとする姿勢そのものは良いのですが、実験科学ないし計量科学的な「実証性」の多寡を比較することによって(のみ)異なる「立場」の優劣を判断しがちな風潮が強いことには問題があります。「実証性」ばかりを秤にかけて議論を決しようとするのは、「立場」に固着して「利害」を無視する不毛な対決主義の典型であり、相手の問題意識に付き合うことを始めから拒否した外在的批判として、あまり望ましいものではありません*7。
私自身もそうだけれど、基本的に長いことニセ科学批判を続けている人は、大体「積極的に信奉者を説得するつもりはない」というスタンスになっていく。
この文章に即した形で言うと、「実証性」を元にした説得までは行うけれど、相手の内面の「利害」にまでは踏み込まないスタンス、ということになるかな。
ゆえにこの言及は、現状認識として概ね正しい。
そして正しいがゆえに、どうにもならない部分でもある。
このタイプの批判はそれこそFAQが既に存在するほどかなりの頻度で存在するんだが、
残念なことにこれを言いだす人は大抵、何故現状がそうなっているのかに踏み込んだ考察まではしてくれない。
多少挑発的な文章なのであまり適切ともいえないんだが、他にいいまとめも無いのでFAQを引用しておこう。
ニセ科学批判まとめ %作成中 - 「ニセ科学批判」批判 FAQ
「『信奉者を説得するつもりはない』なんて冷たいんじゃないの?」
信奉者の説得を試みることを否定しているわけではない.説得できるならば,もちろんそのほうが良いだろう.しかし残念なことに,どんなに言葉を尽しても説得が通じない相手は少なからず存在する.「信奉者を説得するつもりはない」という言葉は,説得を試みた経験から出ているのだ.
説得されることを拒む相手を説得するには大変な根気が必要で,しかも成功する可能性は低い.そういう相手と1人ずつ向き合うには,あまりにもリソースが足りない.というわけで,現在ニセ科学を批判している人にさらに「信奉者の説得」を負わせようとしないで,是非とも心優しいあなたが説得してみてください.
毎年ニセ科学批判批判の話題で盛り上がるたびに、この手の言動をとる人の中から誰か一人でも実際にアクションを取る人が現れないかと観察しているんだが、まだそういう人が現れたところは見かけない。
なお、「説得」に大体どれくらいのリソースが必要になるかは、あまり情報が無いので私の経験を元に少し書いておこうと思う。
まず、本人が自分から相談してくるようなケース。これは比較的軽傷。
何度かやり取りするだけで片が付く場合もあるが、大体1週間から1カ月コース。
一方で本人ではなく周囲が困って相談してくるようなケース。これは重傷。
ニセ科学の「信奉者(ビリーバー)」と呼ばれるクラスになると、生活と人づきあいのかなりの割合がニセ科学関連のそれで染め上げられているレベルになるため、これに介入する場合、それこそカルトから信者を脱出させるくらいの覚悟で臨む必要がある。
昨年関わったあるケースだと、合計2カ月以上かかってたかな。
負担が大きいので、この手合いは知人からの頼みでもない限りはまず引き受けない。
ちなみに、私が相談を受けた件数はここ3年ほどで15件くらいで、大体二月に一度何かあるぐらいの頻度か。
それでも何件かは、私が対応できる状況に無かったり成功の望みゼロだったりで断っている。
成果7/11。
向こうから来る分でさえ持てあまし気味なのに、こちらから積極的に何かするだけのリソースは、正直言って無い。
なお、私の所に来る相談はかなり少ない方で、多い人の所にはもっと高頻度で来ているはず。
他の人も多分リソースの余裕が無いという点では似たような状況じゃないかねえ。
こういう話は皆あまり表に出さないので、実態がいまいちよくわからないというのが正直なところではあるが。
このリソース問題はニセ科学批判を行っている人間が皆気に留めている問題ではあるけれど、根本原因が人員不足にあるのでどうにもならん。
人手が増えてくれるなら大歓迎なんだけれど、訴訟リスクとかも考えるとおいそれと声を掛けられないというのはあるな。
さて、だいぶ話がそれたので元エントリに戻ろう。
科学を標榜する政治運動
(1)まず、実証が乏しいものは考慮に値しないとして、「利害」もろとも「立場」を否定しがちな点です。科学とは世界理解の一手段ですから、基本的に全て推論です。実証は推論の確かさを担保する作業であり、仮説と根拠を結び付ける推論を伴います。実証性の程度を判断する基準は一様ではありませんから、実験科学/計量科学的な実証性に限定された判断は妥当とは言えない場合があります。また、そもそもいかなる基準においても実証性が乏しいと判断されるような推論であっても、「真実」の共同探究に資するかもしれない可能的推論の一つではあります。したがって、実証性の程度だけを以て推論の価値を判断することは科学の目的合理性に反する、非科学的な態度です。現段階では実証性が皆無でも、真剣な考慮に値する興味深い推論というものは、どの分野でも存在するでしょう。その着想を奪うなら、科学に未来などありません。
ここで私が興味を持ったのが、
エントリ主は一体何を持って「科学的な価値判断基準」とするのだろうか?という疑問だ。
ここまでの文章から、彼が「科学的なエビデンス」「実証性」をその一つとしてみているのは分かる。
そしてそれだけでは足りないとみているのも分かるのだが、
「いかなる基準においても実証性が乏しいと判断されるような推論」ですらその価値を否定されるべきでないとするならば、
そも科学的な価値判断基準なぞ設定のしようがあるのだろうか?
例えば昨年ヨーロッパのLHCが稼働した際に、LHCの稼働によって地球がブラックホールに飲み込まれる可能性があると主張して裁判を起こした女性がいた。
粒子加速器の実験中止求めた女性が敗訴 ドイツ 国際ニュース : AFPBB News
彼女はまさに科学的合理性によって「利害」も「立場」も否定された訳なんだが、このような事例も非科学的な判決と批判するのだろうか。
このケースで却下以外の判決を出すことが科学的ならば、その方がよほど科学の未来が無くなりそうだが。
科学的に正しいことが社会的・政治的に正しいことにはならないし、両者をイコールで結びつけるべきではないというのは分かる。
そしてエントリ主が、ニセ科学批判や『「トンデモ」批判論』が、ときに「科学的に正しいこと」を「政治的な正しさ」として利用していないかと主張したいことも。
しかし科学的な判断と、政治的・社会的な判断とはレイヤーを分けた方がいいのではないだろうか。
どうもその辺の切り分けがうまくいっておらず話が混乱しているように思える。
なお、私は「科学的に正しい」条件に「利害が保障されること」を含めるこの考え方は非常に危険だと考えている。
いや『相手の「利害」を斟酌しない論理は科学的に間違っている』という主張が危険だと言い換えるべきか。
なぜならばこの考えは、科学的根拠の客観性を「利害」という私的価値で犯す。
すなわち、ある人に対してはある科学的根拠の援用を是とし、別の人には同じ科学的根拠の援用を非とするような、恣意的な科学的判断の肯定以外の何物でもないからだ。
(2)次に、「トンデモ」批判論においては、実証性が乏しい推論は有害であるとして「トンデモ」論に社会的な悪影響を帰責する傾向が見受けられます。しかしこれは、批判対象とする「トンデモ」がどのようなプロセスによってどの程度の悪影響を社会に及ぼしたのかについての実証的な研究結果が添付されない限り、批判者が用いる論理の自己適用によって非科学的な推論に留まるでしょう。
さて、ここで注目すべきなのは、少なくない「トンデモ」批判論においては、科学の本旨に反して、異なる「立場」を架橋するためどころか、むしろ「立場」同士の争いに「勝ち負け」をつけるためにこそ「実証性」の基準が持ち込まれているように見える点です。そして、この基準は全方位的に適用されるわけではなく、論者が対立する「立場」を攻撃することを主目的として用いられます。ここには、「科学的知見への敬意を」というタテマエ的「立場」の裏に潜む、「気に入らない奴らを一掃する武器が欲しい」という昏い欲望=「利害」を見ないわけにはいかないでしょう。率直に言えば、これは歴史的に繰り返されてきた科学の政治利用であり、科学と政治の混同であり、政治運動による科学の僭称です。
ここはおそらく鏡を差し出すべき部分だろう。
『「トンデモ」批判論』に対して『実証的な研究結果が添付されない限り、批判者が用いる論理の自己適用によって非科学的な推論に留まる』
といいながらも自分は例の一つも提示せぬままに『少なくない「トンデモ」批判論』がこうだと決めつけ、科学の僭称とまで言う。
これは『科学の本旨に反して、異なる「立場」を架橋するためどころか、むしろ「立場」同士の争いに「勝ち負け」をつけるためにこそ「実証性」の基準が持ち込まれている』議論そのものではないだろうか。
自ら身を呈してサンプルを例示したというのであればいっそ感心するのだが。
何が科学を政治から分かつのか
しかし、勘違いして欲しくないのですが、政治的であること自体が悪いわけではありません。それどころか、私たちはみな非政治的であることが不可能な存在であり、ただそのことに自覚的になるべきなのです。そして、自らが為したり為そうとしたりすることが政治であるのか、科学であるのか、あるいはそれ以外の何かであるのかを、事あるごとに意識しておいて欲しい。そう思います。
有志の科学者たちによる「ニセ科学」批判に代表されるように、社会が真剣に取り扱うべき問題が何であるかについて、(特に専門的知見を活かして)積極的に発言し、政治的/経済的/社会的資源の投下基準となる価値序列付けに介入していこうとすることは、よいことです。それは素朴に良いことです*8。
ただし、そこで争われているのは各々の論が科学的であるか否かではなく、社会が取り組むべきイシューとしてのプライオリティについての適正な判断でしかありません。「愚かさ」の話を思い出して下さい。社会的議論の対象になるのはあくまでも政治的な価値序列付けであり、個別の文脈における内在的価値(それ自体の価値)ではありません。
科学的知見は、序列付けを正当化する公共的理由付けの一部として用いられます。つまり、「トンデモ」をめぐる議論とは、「これに社会的コストをかけてくれ/かけてくれるな」といった働きかけを中心とする、あくまでも政治的な争いなのです。科学者たちは、この政治闘争を有利に導くため、自らの専門的知見を資源として動員しているに過ぎません。
科学の蓄積を利用することは、行為そのものの科学性を担保しません。社会的な価値序列付け、政治的イシューのプライオリティの問題を、科学性の争いと混同すべきではありません。論の科学性は、その内容や方法ではなく、目的と姿勢が担保するのです*9。
このくだりは普通にいい文章だと思うんだがなあ。(ただし最後の一文以外)
ニセ科学批判というのは、エントリ主も指摘する通り政治的なアクションだ。
その論拠に「科学的な実証性」を用いてはいるけれど、その目的は、社会がどう動くべきかに対する介入だからね。
元エントリは2章の(1)と(2)をがっつり削った方がよほどいい文章になると思う。
【疑似科学・ニセ科学・オカルト・トンデモの最新記事】
政治的な選択肢の延長として予想しうることを可能な限り提示するのは社会財を消費して研究に携わるものの責務ではないかと考えます。
ただし、政治のために科学をやってはいけない
そうも思っています。
それは、もっと悲惨な結末を生みます。
科学的な知見・提言が政治によって封殺されるとき、恐らくは大きなしっぺ返しを社会は受けるでしょう。
政治的な目的のために科学が裏づけをしようとしたとき、科学は最後には信頼を失うでしょう。
最近の話題だと
前者にはマグロ問題が
後者には温暖化が
それぞれ該当するんじゃないでしょうか。
「もっと積極的に政治をやろうぜ!」
って話ではないですかね。
繰り返し政治の価値を訴えるとか。(交渉学だの科学の政治性だのは、その為のキーワード)
結びの「私自身はそのようなstakeholder democraryの試みの方が(中略)現実的でかつ魅力的であると思います」とか。
これに対して
「リソースがない」
という返答では
「じゃあお前ら冷や飯食らってもしょうがないよね」(《政治》ってそういうものだから)
「合意まで辿りつかなきゃ、ムダに場が荒れるだけじゃん」(《政治》のリソースが消費されるんだよ?)
「そんな先の解りきった行動、最初からするなよ」(だから半端に《政治》すんな、素人)
になるような気がします。
・害となる効果が実証されたのだから、有効な効果については研究の必要がない。
害も効能も性質の一側面でしかない。
性質の一側面を利害に直結した活動に利用する発想へ学者をいざなうのは、低級な罠に見える。
b)根拠は曖昧だけど、説を否定する人。
c)根拠を示して、説を支持する人。
d)根拠を示して、説を否定する人。
政治屋が欲しがるのは、
1.政治屋が言い放った事を自己責任で裏付けしてくれるc)やd)の学識層の人。
2.政治屋にとって邪魔な人を社会的に葬り去るってくれるa)やb)の一般民衆。
政治活動参加の呼びかけの実質が政治主導の呼びかけであるなら、それは科学者を政治屋の犬に変えめための汚いやり口に思えるわけです。
これ
再現実験、再現実験……
この言葉、はっきり言って、ゲンナリする