というかオーウェルの1984年を問題に使用していたりと色々とすごいな今年の試験問題。
個人的にはyu-kuboさんがどういった経緯でこの問題を知ったのか非常に気にかかる。
via はてなブックマーク - センター試験解答速報2010 倫理 第4問
センター試験解答速報2010:倫理 第4問
倫理の問題としてここまでガチの科学哲学ものを出してくるというのは、私がセンター試験を受けていたころには赤本でも見た記憶が無い。
最近はこういうのが流行りなのだろうか?
疑似科学という言葉を使ったり、引用文献に伊勢田さんの本を持ってくるあたり非常にポイントが高い。
倫理の受験生的にはこの問題が得点源となったのか、それとも予想外の罠になったのか、気になるところ。
正直この第四問の設問は、理系の高校生でも結構難しいと思う。
ちなみに自分でも解いてみたら、一問間違えた。イドラの種類なんて覚えてねー。
なお、試験問題中で引用されている伊勢田さんの本は、科学哲学の簡易な入門書としてかなりお勧め。
【疑似科学・ニセ科学・オカルト・トンデモの最新記事】
えええと?
答えは2?
ちがう?
1 「血液型性格判断が科学的に否定された場合(なら科学的には間違ってるんだろうけど)ふだんの会話の中で盛り上がる話題(=科学ではなくあそび)としてそれを持ち出すのならば、全く問題はないよね。」 → 科学であることを求めていないから疑似科学的ではない。
2「血液型性格診断が科学の教科書(=科学か否かを判断する権威)で否定されたとしても(=科学的に間違っているとされたとしても)、血液が生命を維持しているのだから(科学的っぽい論理)、やはりそれは科学的にみて正しいはずだよね。(科学認定)」 → 科学ではない(ということになった)のに「科学の装いをまとわせている」からこれがアウト。
3 「絶対視しない方が良いよね」 → 科学だとみとめて信頼をおいていない。だから疑似科学的であることに必要な「少なくとも科学の装いをまとって」いない。
4 「信用できないよね」 → 同様
英語の4コマ漫画の問題がなくなって
事故の目撃者の話を総合して解く問題が登場したり
いろいろすごかったです。
にしても疑似科学の話が出題されるとは夢にも思いませんでした。
いや、理系だから受けなかったんですけどね。
血液型性格診断は疑似科学です。
これが困ったことに数学者の中にも疑似科学であるこの血液型で正確はある程度決まるという論を言う人がいて、言われた時に内心「それは違いますがな」とツッコミを入れましたよ。
版元を見ると、名大出版会になってますなあ、さすが旧帝大。
倫理受けてきました
此の問題は得点源でしょう
暗記が必要なく考えれば解ける問題ですから
あーでも予備知識がないと難しいかな・・・
ただ参考書を暗記するだけの人間を落とそうとしているのかもしれません。
英語といい化学といい大きな変化が感じられる年でした。
8問全問正解でした( ̄ー ̄)
ヤマカン衰えてねーw
イドラなんて聞いた事もなかったけど、文脈に一番沿うの選んでみたらまぐれあたりw。
伊勢田さんの本読んで以来、科学哲学はベイズ主義以外ありえねーってかんじです(影響されまくり)
俺の100点の夢を打ち砕いてくれたkとだけは覚えてる
かならずしもそうとはいえない。血液型性格判断が統計的に有意か有意でないかを研究することは十分科学的。
むしろ、血液型性格判断が疑似科学だと決め付ける態度のほうが科学的でない。大陸移動説だって最初は疑似科学扱いだったからねぇ。
有意でないという結論が既に出ているから疑似科学とかニセ科学と言われてるんですよ。
大陸移動説とはまるで違います。
たぶん、この方はウエゲナーの説はよく知らないと思われる、
状況証拠は十二分にあるが大陸移動の原動力は何かの決め手が
わからないのでで主流になり得なかっただけで、血液型正確判断の非科学とは次元が異なります。
仮説と疑似科学の区別が出来ない人もいるのかもしれません。
「血液型性格診断」は統計的に有意でないという結論が出ているのにも関わらず、もっとデータを増やせば有意になるのだとか、関係があるのだという意見を主張する人がいるので、疑似科学から病的科学に移行しつつあるのかもしれません。歴代のものに比べてかなり弱いですが。
病的科学 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%97%85%E7%9A%84%E7%A7%91%E5%AD%A6
「頭のいいひとがそう言ってました」ですか
はっきり関係ないと言い切ってるやつは相当な馬鹿ですね
論文を探せば複数の調査結果が見られるはずですよ。
そのほぼ全ての結論は「血液型と性格に関係があるとは言えない」でした。
学術的な正確さを期するには「はっきり関係ないと断言」は出来ないかもしれませんが
日常的なレベルの発言なら「関係ない」と言い切っても間違いではないかと。
もちろん、「血液型と性格の関係」を示唆する学術的調査結果が新たに提出されれば話は別ですが。
人間の血液型を現在測定分類されているすべての型式で通りを計算すると、60億通り以上。
一般的に血液型で性格の傾向を分類する際、ABO式に準拠する場合がほとんど。
クレッチマーの性格分類の類型より、ABO式血液型のそれぞれの性格的傾向とされる事象は、よく精査すると反証だらけ。
科学的に論証すると、これらの血液型で正確に一定の傾向が見られるという仮説の証明は困難である。
だからこの仮説は疑似科学とみなす。
以上でよろしいですか?
B型の性格として一般的にいわれる、マイペースな性格はほぼ他のA型、O型、AB型の人にもみられる性格で、血液型がマイペースな性格を決定する要因の証拠とはならない。
統計調査をした結果、マイペースな性格を示すB型の人が多いというデータが出て有意なデータであるという調査報告を根拠に人の主張に意義を唱えるのが科学的反論。
センター試験の問題文にある血液型と性格診断の根拠は血液は体を構成する物質であるから、性格に影響を及ぼす。という説は、一見客観的に見えるが、そもそも性格を決める要因には環境で醸成された価値観などもあるので、どの性格傾向が身体的特質によるものかを、血液型というファクターで座標設定する方針では破綻することが知られたため、疑似科学とみなされている。
この仮説を証明するためにはB型の血液型のすべての人でその性格傾向が示されねばならないのに対し、反証は1人の例外を提示するだけでよいからである。
これは数学論文の証明で用いられる検証方法です。
国語の力もつくから、理系でセンター試験9割以上狙うのだったらおすすめ。文系でも世界史や日本史を勉強しているなら相乗効果が表れやすいね。
倫理という名がついているけど、宗教・哲学・一般常識の三つがほとんどを占めているから、とっつきにくさはあるかも。
>>11は
>血液型性格判断が統計的に有意か有意でないかを研究することは十分科学的。
と言っているが>>7は
「血液型性格判断を統計的に研究することは有意か有意でないか」について論じていない。
言っているのは「血液型性格診断は疑似科学である。」ということ。
これに反論したければ
「血液型性格診断は科学である。」
ということを論拠を示して言わなければならない。
それはまさに>>17のいう、「血液型と性格の関係を示唆する学術的調査結果」だ。
「血液型性格診断を統計的に研究すること」は
科学的であるに決まっている。
両者の違いがわからないなら>>11の頭は科学的にできていない。
この議論に参加すべきでない。
一応。
そもそも、「有意かどうか」だけで論じるのが非常に乱暴です。有意というのは、検定の結果どうであったか、を示すものでしかありません。仮説は何か、サンプルはどのように採ったか、などが論じられないと、端的に言って無意味です。
仮に、統計学的意味以外で有意の語を用いているのだとしたら、紛らわしいのでやめるべきです。科学的議論の文脈なのですから。
現在の知見としては、ランダムに採った大標本の解析や、他の多くの研究からも、どうやらABO式血液型と性格に強い関連はないようだ、と言えます。従って、科学的正確には、
「血液型と性格に何の関連もないことを示すのは理論的にほぼ不可能だが、それらに強い関連がないのは実証されたと言って良い。従って、日常的な行動観察で性格傾向を分類するようなことは出来ない。」
などと書くことが出来るでしょう。そして、成り立たないことが明らかになった説を、あたかも実証されているかのように吹聴すれば、それはニセ科学や疑似科学と看做されます。
当然ですが、「血液型と性格との関連を調べる」ことそれ自体は、性格心理学や社会心理学の方法を踏まえたものであれば、「科学的」です。調べる営みが科学的であるか否かと、ある言明それ自体が科学的にどうであるかは、一応は分けて考えるべきです。
・「血液型性格診断」が科学と主張するなら証拠が必要
・そんな証拠はいまのところない
・なのに証拠があるように扱われるので「血液型性格診断」は疑似科学
・「血液型性格診断を研究すること」が科学的に行われていてるならそれは科学
・しかしそれと「血液型性格診断」自体が科学かどうかとは関係ない
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>>22
>そもそも、「有意かどうか」だけで論じるのが非常に乱暴です。
恣意的やればどんなものでも有意差は出る。だから有意かどうかだけで判断するのは危険。という意味に解釈しました。まったく同意。
でも、正確性を求めるばかりにいつも長い説明を書くのも読むのもつらい。「有意」という言葉に限らず一般的な議論の仕方として、
書き手は議論に求められる精度に合わせて言葉を使えばいいと思います。あんまりハードルあげると誰も議論しなくならないかな、ということです。
脱線してすいません。