『教育現場に水のメッセージを』(『Hado』9月号)|ほたるいかの書きつけ
今年3月初め「EMOTO PEACE PROJECT」の事務局であるOFFICE MASARU EMOTOに、1本の電話がありました。
電話の主は、埼玉県所沢市にある小学校の校長先生からで、その内容とは、
「7月に予定されている関東地区女性校長会の総会に『水からの伝言』の著者である江本勝氏の講演をお願いできないでしょうか」というものでした。(以下略)
関東地区女性校長会という、小中学校の女性校長の団体に江本勝が招かれて講演したんだそうな。
これだけでも何考えてんだかという感じなんだが、続く部分を見てさらに悶絶。
また、最近の実験から、韓国の大学病院産婦人科との共同研究として、妊婦さんの羊水に音楽や言葉を見せた結晶も紹介されました(46ページに関連記事)。(引用者注:同じ号に、羊水をホメオパシーにならって5万倍に薄めた水の結晶が紹介されている。下参照)
先生が用意した妊婦さんの羊水をホメオパシー溶液の倍率である5万倍に薄めた水の結晶を撮影しました。
羊水の結晶です(写真1)。この羊水に韓国語で「堕胎」という言葉を見せて撮影すると(写真2)、何か文字のようなものが現れました。
羊水に子どもの写真を見せたら、とってもいい結晶になりました(写真3)。
水伝にホメオパシーとか、あまりにイッちゃってて素敵すぎる。
こんなとんでもない講演をしたんならさぞかし会場は荒れただろうと思いきや、さにあらず。
講演は好評のうちに終わり、この講演会に参加した120人の女性校長のうちの何割が申し込んだのかは知らないが、後日水からの伝言の無料配布に7000冊もの応募があったそうな。
そして、最後に、現在展開しております「EMOTO PEACE PROJECT」の説明が行われ、子どもたちに絵本を配布したいという小学校には、無料でご提供させていただくと申しあげました。
すると、後日、各小学校より続々と注文があり、すでに約7000冊の絵本が関東圏内の子どもたちの手元に届けられました。
オープンな心で、愛情と熱意をもって教育にあたっておられる、たくさんの女性の校長先生方を前に、明るい希望が感じられた、そんな一日でした。
冊数から見るに全教室への配布とか、下手をすると全校生徒への配布とかやってそうだ。
私はこれを読んでも乾いた笑いしか出て来ないのだが、講演会場では明るい希望を感じるおめでたい人間が少なくなかったらしい。
関東地区女性校長会傘下の校長は、そろいもそろってカモがネギをしょっている性質の人間ばかりなのだろうか?
これを批判する人間は一人もいなかったのか?
ここまで酷いともう笑うしかない。
これだけだとあれなんで、一応
「水からの伝言」を信じないでください
田崎先生の書いた、なぜ水伝がだめなのかのまとめ。

水はなんにも知らないよ
左巻先生の書いた、水伝批判をメインにした疑似科学入門書。
もし騙されている人がいたら上のサイトとともに勧めてあげましょう。
<10/12追記>
◆この件の反響と後日談
この件は反響がかなり大きくて、この記事だけでもページビューが4万以上、他のブログでもかなり取り上げられていた。
とうとうネットの外に出て10/8にミヤネ屋で取り上げられたので、まとめを別エントリに立てておく。
幻影随想: ミヤネ屋が校長会の水伝騒動の一件を取り上げたようです
【疑似科学・ニセ科学・オカルト・トンデモの最新記事】
色々と疑似科学はあるようですが、中には科学知識がないと判断しようがないものも多数あるように思います(例えば血液は腸内で造られる、みたいな)。
ただこの水伝の話については科学知識以前に、「道徳性や行為の意味が分子、原子や物理法則などの非人格的な分野に出現する」というのは最初から疑ってかかるべきなんじゃないのかな、というのが私の感想です。逆の話も同じで、例えばパウリの排他律から弱者をいたわろうという意味が抽出される、なんていう主張があればそもそも怪しいですよね。
そういった意味で科学知識以前に関東地区女性校長会はやばい気がします。
現場に居たら怖くて泣くと思うけど。
女性の小中学校の校長先生にだって理科専攻の人はいるはずで、誰か一人ぐらい「変じゃん!!」といってそうな気もするのですが。
もっとも、私がいぜん仕事で関係していた某県の理科教師の場合、物理も化学も全然わからん!と堂々といっていて(実際そうでした...)、理科専攻といってもダメなのかもしれませんけど。
「バカじゃないの?」
と言ってくれる人はいなかったんでしょうか。
校長って、そんなに世間知らずでも就ける職なんでしょうか。
彼ら、彼女らに一般常識は有りません。
専門的知識など、論外。
専門性がない職業ですから。
売国奴に教育が支配されている時点で終わりだろう。
子供たちを心から信じて、生徒のために一生懸命に尽くそうという人々に必要な資質は、批判心よりも愛情であり、"言葉には物質を変えるほどの力があるんだ"という恐れと気遣いでしょう。
私自身、水伝を信じていませんが、それを信じる聖女たちを馬鹿にする態度には違和感を覚えます。
子供に「死んだらどうなるの?」と尋ねて「死んだら焼かれて灰になって終わりだ」と事実を伝えなければならないと考える親父と同じでしょ。
そのときは「死んだら、天国に行くんだよ」と言える大人でないと、たぶん、子供はぐれますよ。
……ああ、ここに来る人たちって、子育て経験の無い人が多いか。
「情報リテラシー」とか何処吹く風ですよ。困ったものです。
はじめまして。
私はこのエントリを読んで、子供たちを悪意ある似非科学商売のネギしょったカモに育成する恐れについて心配しました。
あと、これからの社会を形成して行く子供たちに必要になるであろう、知識を背景とした論理的思考を涵養する障害になるであろうことも心配ですね。
「死んだら、天国に行くんだよ」と言うよりは、「どうなると思う?考えてごらん」と問題提起する方が理科離れを防ぐ効果が見込めるかと思います。
問題提起こそが理科を楽しむ原動力ですから。(まぁ、理科が大好な人間には、そうでない人間を理解することはできないのかもしれませんが)
校長、副校長(教頭)の仕事の内容は「教育者」と言うよりも、学校を運営する「経営者」に近いです。
まあ、児童、生徒から見れば同じ「先生」かもしれませんが。
小学校はどうかわかりませんが、少なくとも中学校、高校で、授業の指導内容そのものは各教員が決める筈です。
例え校長が「水伝」を推したからと言って、それを使うかどうかは、教員の判断、となると思うので、道徳の授業で云々、と言った事に比べれば、影響(被害)は少ないと思われます。まあ、同じ様に信じてしまう(騙される)教員が居るかもしれないので、「無いよりは悪い」程度の話でしょう。
「校長」が最高権力者で、「校長の決めた事は絶対」なんて話は、少なくとも公立の学校では、お話の中にしか有りません。
「校長会」がどんな物かはわかりませんが、突っ込みを入れづらい「空気」なら、敢えて突っ込みを入れる人は居ないのでは無いでしょうか?
>ひろぽん様
確かに、児童、生徒に、批判心や論理、知識、等、だけを教えるのは問題かもしれませんが。
そうでないものが全て「無条件で、素晴らしくて、伝えなければならないもの」という保証は一切無いわけです。中には、害になる物も混じっている可能性が有ります。
「きれい」「優しさ」「愛情」と言った言葉がついていると言うだけで、無批判にそれを教えるという状況は、危険な事ではないでしょうか?
教える側に必要な資質は、愛情と、それと同じかそれ以上の批判心、(とできたら論理的な思考能力)だと思いますが。
ゆとり教育の弊害がこんなところに出てきているんですね、
いや、偏差値教育か。どっちでもいいけど(ウソ)。
いいなあ。人を騙しやすい世の中って、素敵ですね。
もっとこの傾向が加速してほしいです。
もろもろ売り込みも人心掌握も楽になるので。
道徳の良い教材がない、って話なんだよね。
そもそも道徳自体が扱いがやっかいな項目だしさ。
なので、科学としてナンチャッテだからダメよ、、、
だけじゃ、ご当人達にとっては何の足しにもならんわけ。
ヤバイでしょ、、、と言うのは簡単だけど、
100万歩ぐらい譲って考えれば、
それだけ、道徳の授業には苦労しているんだろうな、と。
変に政治的なネタを使うわけにもイカンのだから。
仕事の関係で何人かの小・中の校長先生と付き合ったりしたことがありますが、皆さん立派な方でしたけどねえ。こういうことがあると、すぐに教師は世間知らずで、閉鎖社会で、といった方向に話が行ってしまいますが、どんな集団にも引っかかる人は一定数は存在するということではないかとも思います。しかしその影響力が問題なわけで。
確かに直ちに水伝授業があちこちで湧いて出ることはないでしょうが、モノが校長だけに、全校集会とか、保護者会なんかの挨拶の際に一発かまされるという可能性はそれなりに高いと思われます。
このような会話に模範解答がひとつしかない、という立場をとることが「子育て経験のある人」の見識なんでしょうか?
「聖女」を馬鹿にするな、という目線は(一段高いところから)いちばん馬鹿にしてる気もするんですが。
私には子育ての経験はありません。中学・高校で教員をしていたときは、子どもたちの親御さんを、自分にはない・できない経験を持ち責任を背負ってきた人生の先輩として尊敬し、畏怖していました。
でも、私は、「水からの伝言」を強く強く非難してきました。私は、子どもたちに、次のようなことを訴え続けてきました(下記のURLを参照して下さい)。
http://homepage2.nifty.com/k-tabe/ijime.htm
ひろぽんさんは、私のことを、「心のきれいな人を馬鹿にして悦にいっている人々の根性の悪さにびっくりしますよね」と思われるのでしょうか。とても残念で、さびしく思います。
なお、私は、「子供たちを心から信じて、生徒のために一生懸命に尽くそうという人々に必要な資質」がないと感じ、すでに教員を辞しています。ご安心下さい。
関東地区公立小・中学校女性校長会
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1221526817
ただ、やはり子供のことが分かっていないな、と改めて感じました。
>chuさん
今回の舞台が、小中学校教育に携わる方々の勉強会だということをお忘れなく。小学校教育で必要なのは、他人を疑うことではなく、他人を信頼すること、そして周囲が子供を愛しているというメッセージです。ただでさえ、危険な時代で「変な男の人には近寄ってはだめ」と指導しなくてはなりません。でも、他人を疑うことしか教えられない子供の心はすさむばかりです。だから先生方は子供に無条件な優しさを与える時期です。その一つのツールとして、水伝は有効だと思います。
>いわしさん
>「理科が大好な人間には、そうでない人間を理解することはできないのかもしれません」
意味が分かりません。
また、子供からの問いに「自分で考えてごらん」としか言わない大人を、子供は相手をしなくなります。特には「自分が存在しなくなるかも」という不安をもった鋭敏な子供を安心させることのできる大人が、幼児期には必要ですよ。
>トーリス・ガリさん
コメントの前半で、校長が直接教育に携わる存在ではないと書かれていらっしゃるのに、後半で「子供に教育する立場として間違っている」という批判を行うのは、論旨が一貫しておられないように感じます。
私も、確かに校長自身が教育を行う立場ではないことは理解しています。しかし、先生方のトップがどういう価値感を持っているかによって、先生方の雰囲気ががらっとかわることもまた事実。そして、批判心ももちろん大切ですが、同時に真善美という「尊いもの」への崇拝も必要。絶対主義を批判し、相対主義に陥るあまり、核の無い子供を育てて子供から自信を奪ってきた昨今の教育現場について、もっと危惧を持ってください。
>shumeiさん
こういうクズのような大人がいるから、子供たちはどんどん傷つくわけです。
>FCさん
そこに私も同意します。結局「他人にやさしくしなくてはならない」とか「嘘をついてはならない」という道徳には明確な根拠なんてない。むしろ、それに反する人間が多数成功しています。でも、道徳を子供たちに教えないと、弱い者がますます傷つき、その共同体全体では、質が低下してしまいます。例えは悪いですが、ある少数派民族Aの親が子供に「敵対する民族Bは悪い奴らだから、Bにはいくらでも嘘をついてもだましてもいいんだ」と教育すれば、Aのある一定数は大成功を収めるでしょう。ですが、A全体の地位は低下して、やがてAに対してBは反感を募らせ、成功者ですら、Bから迫害を受けるようになるでしょう。
>ヒスタミンさん
「死んでも灰になるんだ」と言っても傷つかない子供は大丈夫なんです。それよりも、傷つきやすい子供のために、どういう回答をしてはいけないかを注意深く回避することが必要。それが教育というものでは?
>田部さん
教育の現場に実際に立たれていた方を結果的にけなすことになり、大変申し訳ないと思います。
ただ、HPも拝見いたしましたが、もしもこういうお話の進め方を授業でなさっていたのなら、子供にとってはつらいのではなかったかと。
水伝が誤りだと説明するために「実際に結晶を作っているのは水ではない」とか「科学のルールから外れている」とか「推測ですが、自分の思いに合うものだけを一生懸命探したのでは」という説明で、相手が納得すると思ってらっしゃる頑固さに問題ありです。一方で実際に観察行為を行い「こういう結果が出てますよ」とおっしゃるのなら、実際に追実験して「同じ条件で実験したが、こういう結果になった」と証明するのが誠実な態度です。そもそも、ある一定条件下で育った結晶がきれいか汚いかを判断するのは、価値観であって、科学とは別問題。それに反証するのなら「汚い言葉をかけても、こんなに綺麗な結晶ができましたよ!」とたった一つ論証するだけでOK、というかそれが絶対に必要。それが論理学です。それなのに「私は実験するつもりはありません」なんて、やろうと思えば簡単にできることをしないのは、単なる知的怠慢です。オウム信者を弁護士がどうやって脱洗脳させたかご存じですか?いくら科学的根拠から説明しても動じなかった信者に、その弁護士が麻原と同じように空中浮揚しているトリック写真を見せたことで、その信者は初めて「麻原もトリックかもしれない」と疑ったそうです。あのHPを作る労力の万分の一の努力で、一つの論証をしてください。
あと、長くなったので意見は次コメントで。
カトリック系の学校って、他校に比べると、道徳教育がしっかりしていると思いませんか。また、生徒も、その他大勢の学校に比べたら、割合的に道徳を守る生徒が多いです。それは私や、周囲が常日頃痛感することでもあります。
中には例外も多くいますよ。あくまでマスで見た時。キリスト教なんて、科学的見地からすれば矛盾点でいっぱいでしょ。それでも、その善なる価値体系によって、人々の道徳感が育まれます。
無神論ばかりの現代日本で、教育者は「正しい言葉、美しい言葉」が本当に正しくて美しいと思い込める、信念の根拠を探し求めています。その中の一部が、水伝を知って「ああ、やっぱり言葉って大切なんだな」と実感して、翌日からの教育に生かすことができるのなら、それでいいじゃないですか。その中で、たとえばオウムのような反社会的な団体があれば、個別に批判する。味噌糞一緒にして、科学的考察に耐えられないものはすべて批判するべきだと考える、親父チックな考え方は、やめましょう。小中学校の生徒に必要なのは、母の根拠の無い無条件の「愛」なのですから。
ひろぽんさんは、「ニセ科学」という概念についてきちんと調べてから、ものを言うべきです。
皆さんのレスを大変興味深く拝見させていただきました。
私は身内にインチキ科学・似非宗教に騙されやすい人がいるため、非常に身近な話題として感じます。
その上でひろぽんさんに言いたいのは、このブログでの話題やコメント欄のほとんどの方々、田崎先生や田部先生が道徳教育や”母の根拠の無い無条件の「愛」”を批判・否定しているわけではないと言うことです。
問題は科学を偽って人を騙しているからです。
偽りを根拠に道徳を語っても無意味だと思いませんか。
キリスト教を例に挙げていますが、キリスト教にしろ仏教にしろ「私たちには科学的根拠がある。だから正しい」と現実を捻じ曲げて主張しているわけではありません。(一部そんな人達もいるようですが)
なにも偽りをもって子ども達を教育しなくても、世界はもっと美しく、信じるに足るものだと思います。
また、追試をして反証すべきだとのことですが、田崎先生の「『水からの伝言』を信じないでください」にも書かれていますが、すでに多くの精密な実験において否定されています。
必要とされるのは「水からの伝言」側の根拠ある精密で管理された実験です。
まず、それを示さないと話になりません。
>ひろぽんさん
>そもそも、ある一定条件下で育った結晶がきれいか汚いかを判断するのは、価値観であって、科学とは別問題。
そこを「別でない」としているのが、「水からの伝言」なのです。
「美しい=善」「醜い=悪」と言うモノサシは科学的に正しい―つまり、この世界のどこに持っていっても正しい、という主張が、江本の「水からの伝言」なのです。
対称的な形を美しいと感じる人は多いでしょう。一方、ランダムなものに美を感じる人もいるでしょう。
しかし、江本は「水からの伝言」で、多数派は善で、少数派は悪としてます。また、それは科学的に立証されているとしています。
ここまで書けばおわかりだと思いますが、つまり江本の主張は、ひろぽんさんの正義とは、正反対なのです。江本の主張するところは、多様性の排除です。
私は決して科学的考察に耐えられないものはすべて批判するべきだと考える訳ではありませんが、
私は幼少の頃から「大人達の都合によって作られた嘘」に触れるたびに「世の中は嘘でいっぱいだ」と感じていました。
私が幼少の頃に「水からの伝言」の話を聞いていたとしたら、純真な心で信じていたでしょう。
ですが、「その話が実は嘘だった」という事が分かった時は、「また一つ嘘が出てきた。」という気持ちになっていた事でしょう。
そして「きれいな言葉」や「きたない言葉」について考える事すら『嘘』として捉えてしまっていたと思います。
小中学校の生徒に必要なのは、母の根拠の無い無条件の「愛」。という事も分かりますが、
「嘘」を「真実として都合のいいように捻じ曲げて」教えてはダメだと思います。
信じる信じないといった話ではなく、
嘘を教えてはいけないと感じています。
子供が「話を信じる」ことは良い事だと思いますが、
大人が「嘘をつく」ことは悪い事ですよね?
子供は大人が思っている以上に大人を見ています。
その大人が悪い事をしていたら、子供に与える影響も少なからずあるのではないでしょうか?
自身が嫌な体験をしてきたので、
この「水伝」は自分の子供には聞かせたくありません。
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>田部勝也さん
ひろぽんさんのコメントを読んで、なんとなく、別所で行われた「無償の愛」についての議論を思い出しました。
>小学校教育で必要なのは、他人を疑うことではなく、他人を信頼すること、そして周囲が子供を愛しているというメッセージです。
「この人は決して悪い大人ではないが、言うことがまるで頓珍漢なので、なるべく距離を置いておこう」
とか近所の気の利いた子供らに思われてるんじゃなかろうか、この人。
たぶんそうだと思います。
江本の主張は、人々の価値観を、ある特定の、つまり江本勝という一個人の価値観に統合して、それ以外を全て悪としてしまおうという、非常に恐ろしい話ですからね。ひろぽんさんが期待するような内容とは、正反対です。
ようするに、「水伝」には、ひろぽんさんが求める、「愛」という寛容の極地はないわけです。むしろ赦していない。そこにあるのは徹底的な排他性。江本が美と思えば美であり、悪と思えば悪。
「水からの伝言」とは、そんなおとぎ話です。
>>「理科が大好な人間には、そうでない人間を理解することはできないのかもしれません」
>意味が分かりません。
不明瞭な表現をして申し訳ありませんでした。
「私自身が『理科大好き』で育ってきた」という意味です。
私は、「科学が嫌いだ」という体験をしたことがありません。
なので、私には「理科や科学(論理的思考)を考えずに生きていく」ということが(主観視点で)理解できない、ということです。
したがって、似非科学問題に巻き込まれている人の視点に立った、正確な指摘をすることはできません。(というある種の逃げです。申し訳ありません)
幼児への対応ですが・・・それは貴方の言うとおりだと思いました。
僕は子供がいますが、これを教育に使われるのは恐ろしい事だと感じます。
どうも今この場で問題とされているものと、ひろぽんさんの問題意識が大きくずれているようなので、まず何が問題なのかきちんとすり合わせるところからはじめましょうか。
私にとってはあまりに自明すぎることなのでエントリ中ではわざわざ書かなかったのですが、このエントリのテーマである「水からの伝言を教育に使うことの問題」は、大きく分けて3つあります。
一つは「水からの伝言」という嘘で塗り固めた泥舟に道徳の根拠をあずけるという過ちです。
「嘘も方便」ではありますが、少なくとも道徳教育のために「その場しのぎの嘘」を使うのは明らかに愚策です。たやすくばれる嘘の上に道徳を置けば、その嘘がばれたときには、嘘にまみれた道徳に対する信頼は一気にマイナス方向に振れます。そしてそんなものを教材に使う教師に対する信用も。
これは「自然主義的誤謬」と呼ばれる問題とも非常に近いものです。
二つ目は「水からの伝言」というファンタジーを教材に使うことで、その向こうで手ぐすね引いて待っているエセ科学業者の方に向かって生徒達を押しやってしまうという問題です。
ご存じないかもしれませんが、「水からの伝言」の江本勝は波動測定器と称したインチキ健康機器の販売業者であり、同様の波動関連機器の大元締めです。そして「水からの伝言」は、まず波動ありきのおとぎばなしであり彼の商売の宣伝のための道具なのですよ。
安易に「水からの伝言」を教育に用いるのは、インチキ業者のために生徒にネギを背負わせ調味料をすり込むのに等しい行為です。
そして三つ目は、コメント欄で多くの人がこの点に触れていますが、既にこうした問題点が散々社会問題になり大きく批判にさらされているにも関わらず、未だにこうやって水からの伝言を取り上げようというその世間知らずさです。人にものを教える立場の人間が、しかも120人もそろっていながらエントリ中で取り上げたような事態が起きているという情況に皆呆れ嘆いているわけです。
>心のきれいな人を馬鹿にして悦にいっている人々の根性の悪さにびっくりしますよね。
>私自身、水伝を信じていませんが、それを信じる聖女たちを馬鹿にする態度には違和感を覚えます。
という文面から、おそらく女性校長会への批判に対する感情的反発が先立たれているのだと思いますが、どうかお願いですから愛とか自己陶酔的な言葉で問題から目をそらさないでください。
実は、ひろぽんさんに、もう一つだけ告白しなければならないことがあります。
私は、子どもたちが生きることになる世界が、必ずしも、子どもたちがそうあって欲しい・そうであるはずだと望んでいる・願っているような世界ではないことを、知っています。
私は、子どもたちが生きることになる世界が、とくに、その世界の物理法則や論理体系が、必ずしも、子どもたちがそうであって欲しいという望みや願いとは無関係に存在していることも、知っています。
いくら願っても、物理法則は変えられないし、いくら望んでも、間違った論理が正しくなるわけではないことも、知っています。
私は、そういった事実・現実に直面したときに、そこから目をそらし、そこから逃げだし、自分がそうあって欲しい・そうであるはずだと望む・願うそのままの世界(それは所詮自分の夢・想像のなかだけの空想の世界でしかありません)に閉じ籠もる──そんな子どもは、育てたくないと思っていました。
私は、そういった事実・現実に直面したときに、それを直視し、それに立ち向かい、傷つき傷つけながら、それを乗り越えて、その先の、新たな、そうあって欲しい・そうであるべきだと望む・願う世界をみずから悩み考え、それに少しでも近づける──そんな強い人間になって欲しいから、分不相応にも教員を志しました。
人は、すべての正しいこと・間違ったことを、最初からすべて知って生まれてくるわけではありません。自分の間違いを知って恥じたり、意図せず友人を悲しませてしまったり、現実の前に打ちひしがれたり、悩み苦しみ、傷つき傷つけながら、成長していくのではないでしょうか。
少なくとも、私は、厳しい現実から目をそらし、ひたすら甘い空想の世界に閉じ籠もるような、悩み苦しみ、傷つき傷つけることから逃げ続けるような人間に、他人の痛みのわかる、本当にすべての人のすべてを包み込むような無条件の愛と思いやり溢れた寛容な精神が身につくということを、とても信じることができません。
そんな私は、子どもをぐれさせる教育をしていたのでしょうか。
──少なくとも、私は、上に書いたような願いを込めた教育を実際に受けてきた(と信じる)者ですけど、私のこころは、ぐれているのでしょうか。
そのコメントに対する私の思いは、他の皆さんが書かれている多くのコメント(特に#21のとぶとりさんのコメント)とまったく同じですので、ここで繰り返すことはしません。
ただ、1点だけ、お伝えしたいと思います。
ひろぽんさんが、#18で、「水伝が誤りだと説明するために〜」以下で書かれた内容は、私のHPに書かれたこととも、私の主張とも、なんの関係もありません。私は、「実際に結晶を作っているのは水ではない」と思ったことは一度もありませんし、「私は実験するつもりはありません」と言ったことも一度もありません(そもそも、これまで、「実験して見せてくれ」と言われたことがないので、そんなことを言うはずがありません)。
さらに、もっとも重要で肝心なことは、私は、「水伝が(科学的に)誤りだと説明」しようと思ったことすら、一度もないということです。私は、「水伝」が科学的に正しかろうと誤りだろうと、それは道徳的に決して許されるものではない、「愛」という概念からもっとも遠い存在である──と、主張しつづけています。
それは、もう一度冷静に、先入観を取り去って、私のHP(↓)
http://homepage2.nifty.com/k-tabe/ijime.htm
を読み返していただければ、わかっていただけると、信じています。
>とぶとりさん(#21)へ。
現在、私はどのような意味でも「先生」と呼ばれる立場ではないことを、ここに明記しておきたいと思います。コメントは嬉しかったです。
>TAKESANさん(#24)へ。
今回も、ひろぽんさんには伝わらなくても、このやりとりを見ている方の誰か一人でも、その背中を押してあげることができたのなら、私にとっては、とても嬉しいことです。
いろいろな観点から、「水からの伝言」の問題性をあらわにしていくことは、とても大切なことだと思います。私のような(ちょっと特殊で独善的な)視点からの批判もあることに、なにかを感じてくれる人がいることを、ひそかに期待しています。
>ひろぽんさん(#19)「無神論ばかりの現代日本で、教育者は「正しい言葉、美しい言葉」が本当に正しくて美しいと思い込める、信念の根拠を探し求めています」
私が、真剣にいくら考えても、どうしても理解できないのは、多くの「水からの伝言」肯定者が、そろって口にする、この主張です。
「正しい言葉、美しい言葉」というのは、言葉を交わしあう、私とあなたとの間の問題です。そこに、なぜ、他のモノ、しかも、こころを持たないモノが介入する余地があるというのでしょうか。
あなたに「ありがとう」と言われると、私は、とても嬉しくて、あたたかな気持ちになる。
あなたに「ばかやろう」と言われると、私は、とても腹立たしく、悲しい気持ちになる。
それ以上に、どんな根拠が必要なのですか。
子どもに「ありがとう」と言われたら、心から喜んで、それを態度に表せばいいじゃないですか。
子どもに「ばかやろう」と言われたら、真剣に怒って、悲しんでみせればいいじゃないですか。
あなたは、そんなとても大切なことを、ちゃんとしていますか。
あなたは、そんなとても大切なことを、忘れていませんか。
自分が、他の人を喜ばせたら、嬉しくならないんですか。もっともっとそうことをしようと、思わないんですか。
自分が、他の人を怒らせたら、悲しくならないんですか。もうそういうことはしないと、思わないんですか。
そんな子どものもつ純粋で美しい気持ちよりも重要な、なにか他の根拠が必要なのですか。
物質的な利益や不利益の存在が必要なのですか。そんなモノが、あなたのいう「母の根拠の無い無条件の“愛”」なのですか。
もしも、他の人を喜ばせたり、怒らせたりしても、なにも感じない子どもがいるのだとしたら、だから、どうしても「水からの伝言」が必要なのだとしたら、そんな子どもにしてしまった・育ててしまった大人の責任は、とてもとても重いと思います。
子どもを、本当のこころをもつ人間に育てられなかった責任、物質的な損得でしか判断できない人間に育ててしまった責任です。
問題の本質が、道徳教育であるとするなら、
それが、科学的に正しいか間違っているは関係ないわけです。
つまり、「科学的に大嘘だからダメだ」という主張も
実は、同じ土俵に乗っているのです。
この問題を一言でいえば、
道徳教育に科学を持ち込むべきではない、でしょう。
たとえば、水伝側の人が、
これは「ファンタジーなんです」と主張しても
受け取る側は「実験で判明している事実」という
一種の科学的な内容として受け取っているわけです。
多くの方が、問題にしているのは、ここです。
どのカテゴリでも同じですが、
内容や問題の本質を伝えるには、
それに合致した素材やアナロジーが必要であることは
言うまでもないかと思います。
その意味で、水伝は筋違いの誤解を招いているので
教材には適さない、というところかと思います。
よって、今回の件についての批判は
本来は、文系の方々によるきちんとした批判が
必要なんだろうと思います。
それが、以前からなされていないのが、
とっても困った状態であるように、わたしには思えます。
おまけとして・・・
水伝のような、科学的に明らかに間違いであるネタについては
理科の先生は威勢がいいのですが、
地球温暖化問題について、小学生に教える・・・・
という問題のやばさについては
一切、腑抜けの方が多いのはいかがでしょう。
非線形の非常に複雑な問題について
二酸化炭素という単一の指標を
小学生に与えることが、果たしていいのか?
水伝批判で悦に入っている場合じゃないのでは?
と思います。
では
>こういう、心のきれいな人を馬鹿にして悦にいっている人々の根性の悪さにびっくりしますよね。
>水伝批判で悦に入っている場合じゃないのでは?
この表現に疑問を感じています。「悦に入る」という言葉は、物事がうまくいって喜び満足するという意味です。愚かな人が子供に嘘を吹き込もうとしたりすることに、憤りを感じることはあっても喜ぶのは異常です。
もしかすると、ここで議論している人は現実に起こっている問題に対して議論しているのではなく、ただのディベートを楽しんで勝ったと喜んでいるのだとでも思っていらっしゃるのでしょうか。
小さい子供がいる私にとっては、私の子供の未来の障壁になりそうな人が、新たに120人くらい現れたという真剣な問題なんです。
現状認識の違いかも知れませんね。
明快な間違いであることを、
何の疑いもなく信じるイタイ人は
今後もたくさん現れます。
そしてそれは、校長先生だろうが、
会社社長であろうが、
大学教授であろうが、
社会的地位はなんら関係なく表出するというのは
歴史が教えるところです。
水伝のような簡単にわかる明快な間違いを信じる構造は
一種のカルトとみたほうがいいわけです。
カルトを拡大させないためには、
1)信者未満の人をいかに気づかせるか
2)無垢の人へ正しい情報を発信する
の2点が重要であり、信者になっている人を叩いても
あまり意味ありません。
叩き方が悪ければ、信者未満でありなおかつ信者と
親しい関係にある人に対して
認知不協和を起こすきっかけを与えてしまいます。
「こんな良い人が頑張っているのに変な批判をして・・・・」
というステレオタイプな反応がでるものです。
ですから、一部、理科の先生のような
上から目線の批判は、ダメなんです。
それを「悦に入っている」と書きました。
> 小さい子供がいる私にとっては、私の子供の未来の障壁になりそうな人
なんとも情緒的な書き方ですね。
子どもは無垢です。ですから、親であるなら、
自分の子どもに適切なことを教えれば、
水伝など笑いのネタかと思いますが。
この言葉をひっくり返すと、自分では水伝のヤバさを
子どもに教えることができない、となってしまいます。
ブーメランですね。
では
7000冊は酷いですね。
本当の数字なのでしょうか。あまり、信じたくないですね。
身内に教員がいるので、念のため釘刺しときました。
LiXさんへ
おっしゃるとおり、「悦に入る」という表現には、少々違和感を覚えますね。
>>shumeiさん
>こういうクズのような大人がいるから、
>子供たちはどんどん傷つくわけです。
ああ、どうもクズ呼ばわりして頂きありがとうございます。
>田部勝也さん、FCさん、LIXさん、TAKESANさん、ほか
「悦に入る」 ーレッテル貼り(相手の感情的反論を誘う)
「子供が傷つく」 ー用語の定義をしない、価値判断を含んだ用語を使う(論点ぼかし)
「子供がぐれる」 ー論点のすり替え
上げていくとキリがありませんが、
「批判心より愛情」ー原因の善意が結果の妥当性を担保する、
という発想が見受けられます。
この方、ブログの趣旨や議論の作法をご存知でないように思います。
そのため、丁寧なご対応をされていらっしゃるのは流石と思う反面、
この方に皆様の誠意は通じているのか、不安を感じます。
FCさんには疑問が膨らむ一方なのでお許しください。
>なんとも情緒的な書き方ですね。
こちらは情緒的なつもりでなく、敵の頭数を数えているつもりでした。それでは、論理的な批判でもどうぞ。
>この言葉をひっくり返すと、自分では水伝のヤバさを
>子どもに教えることができない、となってしまいます。
私の言葉からは「自分では水伝のヤバさを子どもに教えることができない」という情報は出てこないので不思議に思いました。どうもFCさん自身の「親であるなら、自分の子どもに適切なことを教えれば、水伝など笑いのネタかと思いますが。」という言葉の対偶を取っていらっしゃる(ひっくり返す)ようです。つまり、「水伝を笑えん⇒子供に教えられん」のようです。
世界が我が家で完結しているか、我が子が校長先生120人を圧倒できる権力と影響力と体力を誇っているのなら、水伝を笑うだけというのも選択肢の一つだと思われます。しかしながら、少なくとも今のところそこまでは我が子は成長していないので、水伝を笑って許す気はありません。
また、学校の先生の言うことを信じてはいけないと、親が子供に教えなければならない事態になれば、教育効果を著しく下げることは御理解いただけるはずです。以上。
論理ってのはどこに行こうと物理が崩壊してもやっていけるってソクラテスからプラトン(アリストテレスまで?)辺りが証明してくれたじゃないか。言い過ぎだけど。
そっから後は条件と当て嵌まるイデアを区切って記録して遺していけばいいわけで、そっからが実践哲学とか倫理とか言うんでしょ?
道徳が入る余地はそこから先の、知識や認識にどう順番段にあるんだろ?
観測系がイカレてんのか
まだいくらでも言いたいがとりあえず、ソクラテスにすら口喧嘩で勝てない奴が教育観念を語るな。
スミマセン。ホントは彼等にはなにも言いたくありません。
文を推敲もしてません。めんどくさいんですよ道理知らずな(上位権限者)大人の相手をするのは。
現実逃避系ポジティブに囲まれて育つと自分が社会という環境系に一生関われないんじゃないかって死にたくなるんですよね。
なんなんですかね、継続的に興味を持てないんですかね自分らがひり出すものに。
誰かの役に立ちたい、を証人欲求ぬきで考えられないから既にある言葉を反芻するだけなんですかね。
ああもう恨み言だな。場違いだし。
どうも中二病真っ只中でですいません
「水からの伝言」が良いんだと主張する方が居れば、
なぜ良くないのかを語ればいいだけの事だと思います。
紹介されている田崎先生のサイトには一問一答形式で
水伝の問題点をまとめてあります。このサイトも含めて
よくまとまった批判記事はいくつか見ますが、よく
まとまった賛成記事は見たことがありません。
ですから、「水伝はここがいいんだ」という具体的な
主張がなされれば、それをタネに有意義な話の展開に
なりそうな気がします。つまり、黒影さんが言って
らっしゃる問題のすり合わせです。
私は水伝を信じていないと言明しています。そこをまず確認してからものを言うべきです。
>とぶとりさん
「このブログでの話題やコメント欄のほとんどの方々、田崎先生や田部先生が道徳教育や”母の根拠の無い無条件の「愛」”を批判・否定しているわけではないと言うことです」とありますが、今回の記事のテーマって、水伝を鑑賞した教育者に対する批判でしょ。水伝自体への批判なら、私も理解できます。でも、そうじゃない。
>A-WINGさん
「しかし、江本は「水からの伝言」で、多数派は善で、少数派は悪としてます」とありますが、それは言い過ぎではないでしょうか。もちろん、要約すれば、という意味で、そのものずばりの台詞が本書に書かれていないことは承知しています。
それと、私自信は水伝を信じていないと言っていますよ。人をバカにする前に、よくコメントを読んで。
>ロドニーさん
何によって傷つくか、は子供それぞれによって異なりますが、多くの子供たちが傷つくのは、乱暴で自分を大切にしてくれない、愛情のない言葉の方が圧倒的に多数です。あなたの言葉に従うならば、サンタクロースがいると答えた大人に、子供はいつか傷つけられる、ということになるでしょう。「だからサンタはいないと言うべき」とおっしゃりたいなら、私はそれには反対ですと申し上げます。
>なんだかさん
ふーん
>いわしさん
こちらこそ、言い過ぎてしまい申し訳ございません。
今回の私の反論は、このすさんだ世の中で、優し言葉、美しい言葉がそれ自身価値を持つということを、水伝という多少オカルティックな内容によって信じようとしている、こういう動きに対して、科学万能主義者が教条的に反論し、バカにして自分が優位に立っていると思い込んでいる、その態度に対する反発が動機です。いわしさんを貶めるつもりはありませんでした。
>悪魔天国さん
数年前に読みました。その時は「へえ、こういうことがあったらいいな」と感じました。でも、そうは都合よくいかないだろうと感じました。世の中、嫌な人間の方が幅をきかせていますから。「これを教育に使われるのは恐ろしい事だと感じます」とおっしゃりますが、じゃあ、昔、お寺の和尚さんが「悪いことをしたら地獄に堕ちるぞ」と子供をしつけていたのは、恐ろしいことでしたでしょうか。
>黒影さん
たしかに、私と他の方が問題にしている部分はかなり異なっておりましたので、このようにまとめていただき、ありがたいです。
1について 「嘘にまみれた道徳に対する信頼は一気にマイナス方向に振れます」とおっしゃりますが、そうでしょうか。私は、子供の頃、ある教師から「言葉はいつまでも消えないんだ。振動になって世界を漂い続ける。だから、君が吐いた人を傷つける言葉は、何十年後かに、君を傷つける」と教えられました。それは物理的に嘘、でしょ?でも、その教師が言いたかったこと、人を傷つけてはならないという想いは伝わってますし、彼に感謝しています。ここにいる人々って、そういう記憶ないのでしょうか。
2について。どちらを心配するか、ですよ。シニカルな子供を育てて、多少物わかりがついてから、他人へ優しくすることを教えるべきか、人を信頼する子供達を育て、その後の教育で、だまされない情報リテラシーを教えるべきか。ここに集まるみなさんは、小中学校での教育と、高校以降の教育に差をつける、ということを考えていらっしゃらないのでは。
3について。批判を受けても求める人が多いのは、需要があるからでしょう。
宗教を私は信じません。しかし、宗教を信じている方の情熱を信じます。その宗教がオウムのような邪教だったり、政治的に偏っておらず、むしろ、それを信じていらっしゃる方によって行われる教育がプラスだと予想できるのであれば、それは肯定するべきだと思うのです。その内容が科学的に真実なのかどうか、で判断して、たとえば小学校で「嘘を言ったら地獄に堕ちるぞ」と教えた教師が「嘘を教えたからおかしい」と批判されるようなバカな世の中は間違っているのではないか、と思うのです。
すみません。長くなりました。今日は時間がありませんので、次の田部さん(私の失礼なコメントに、このように丁寧に対応してきただき、ありがとうございました)以降の方への返答は、また後ほどさせていただきたいと思います。
ただ、最後に一言二言。
>shumeiさん
先にあなたの方が、失礼なコメントを書いていることをお忘れ無く。
「いいなあ。人を騙しやすい世の中って、素敵ですね。もっとこの傾向が加速してほしいです。もろもろ売り込みも人心掌握も楽になるので」という嫌みで人を煽るようなコメントを吐く方が、逆に煽られると「ブログの趣旨や議論の作法をご存知でない」とぼやくのは笑止です。少し怒りながら書いた私のコメントに、他の方が丁寧なに対応していただき、感服と尊敬をいだいております。ですが、shumeiさんに関しては、クズのような大人だという印象に変わりありません。他人を批判する前に、まず自分自身の姿を顧みられたらどうでしょうかwww
また、LIXさん、こういう場で抗議すると、「ただのディベートを楽しんで勝ったと喜んでいるのだとでも思っていらっしゃる」とおっしゃるように、内容自体よりも、その行為をバカにする方が必ず出てくることを不思議に思います。ご自身の意見表明自体、じゃあ、ただの自己満足ですか?
なるほど、ひろぽんさんは、信じていないけど道徳に使うのは有効なんですね。
でも、水伝で言われている内容を実行すると、道徳的におかしな事が起きますね。
水伝では、綺麗な言葉を見せたら綺麗な結晶ができて、汚い言葉を見せたら汚い結晶ができると言われています。
では、全て綺麗な言葉を見せて結晶を作ったらどうなるでしょう。
「ありがとう」「感謝します」「人に親切にします」「愛」など。
実際は、言葉に関係なく、綺麗な結晶・汚い結晶はランダムにできます。
つまり、綺麗な言葉のどれかに汚い結晶ができます。
もし、「人に親切にします」で汚い結晶ができたら、道徳的に合わないですね。
水伝が科学的に間違っているのは解りきった事ですが、そちらの方が問題でしょう。
綺麗な心の持ち主と言われていても、その行動が道理に合わなければ、批判されるのが世間の道理です。
> ひろぽんさん
これまでにお書きのことを読むと、ひろぽんさんは「信じる」と云うことを無前提に「善いこと」である、とお考えのように見受けられます(自ら「信じていない」とおっしゃる「水からの伝言」を信じていらっしゃる方々を「聖女」と称揚されているので)。
「水からの伝言」は、まず嘘です。そのことを認識せずに「信じて」いては、方便としても有効には使えません。
そしてそもそも、「水からの伝言」をはじめとする江本勝の主張の内容は、方便として使うにはあまりにも問題が大きい。そこにあるのは例えば「表面的によい意味を持つ言葉は、その言葉を発した人間の思いにかかわらず道徳的によいものである」と云う主張であり、「かたちが整ったもの(整然とした水の結晶)は道徳的に優れている」と云う主張であり、「クラシックをはじめとするある種の音楽は道徳的であり、ある種のポップミュージックは不道徳である」と云う主張です。そして、これらをすべて科学的な実験によって確かめることができる、と云う主張です。
有り体に云って、そこには「ひとの思い」や「愛情」が介在できる部分はありません。道徳と科学を直結させる主張をすることによる、必然的な結果ですが。
> 私は、子供の頃、ある教師から「言葉はいつまでも消えないんだ。振動になって世界を漂い続ける。だから、君が吐いた人を傷つける言葉は、何十年後かに、君を傷つける」と教えられました。それは物理的に嘘、でしょ?でも、その教師が言いたかったこと、人を傷つけてはならないという想いは伝わってますし、彼に感謝しています。
このことは、ひろぽんさんがその先生の伝えたかった「想い」を受け止めたからだと思いますが、違いますか?
その先生も、自分の言葉を科学的な事実として「信じて」いたわけではないのでしょう。またひろぽんさんがそれを科学的事実として「信じた」から、先生の想いが伝わった、ということでもないでしょう。
その意味で、サンタクロースの比喩は完全に筋違いです。
江本勝の言説は、それが科学的な実験によって確かめられた、と云う部分をはずしてしまうと成立しません。そこをはずしてしまうと、上に書いたようなきわめて差別的で不寛容な考え方がむきだしになってしまいます。このようなものを、仮に方便としても教育の場でこどもたちに教えることを、ひろぽんさんはよしとされるのでしょうか?
> 宗教を私は信じません。しかし、宗教を信じている方の情熱を信じます。
宗教が有益である場合も、もちろんあると思います。でも、「宗教を信じている方の情熱」が歴史上多くの悲惨をもたらして来たことも、もちろんひろぽんさんはご存知ですよね?(悲惨をもたらしたのはそれが「邪教」だからだ、とおっしゃいますか?)
単純に「信じる」ことは、そしてそれにもとづいて行動することは、行動するひとには強い信念と動機付けを与えますが、その行動は社会にとってよい結果も悪い結果ももたらし得ます。そのことをシンプルに称揚するのは問題があると思います(仮に江本勝の主張が宗教であるとしても、上記したような理由によって、それはいまの社会で受け入れられるべきではない、それこそ「邪教」だと思います)。
> 多くの子供たちが傷つくのは、乱暴で自分を大切にしてくれない、愛情のない言葉の方が圧倒的に多数です。
問題なのは、そこに「愛情がない」ことのほうだと思うのですが、違いますか?
父親が頭をなでながら笑顔で息子にかける「ばかやろう」と云う言葉より、紙に書いて額に貼り付ける「ありがとう」の文字のほうが愛情を伝える、なんて、まさかお思いになりませんよね。
江本勝の主張は、そのような種類のものです。
水伝を信じているかどうか、と、水伝についてどのくらい知っているか、というのは、別の話です。
それでひろぽんさんは、「ニセ科学」と水伝について、どのくらいご存知なのですか。こちらでの話題はそれらについてのものなので、対象について共通了解が無いと、話が噛み合う訳がありません。
ひろぽんさんは水伝の有効性について、宗教を引き合いに出しておられます。
私自身は特定の宗教を信じておりませんし、宗教が倫理教育に有効とも思っていません。
何がしかの信仰を持つグループのほうが、無宗教の集団よりも倫理的に優れているということを示すようなデータは見たことがないし、歴史的に見て宗教がらみで行われた行為は、倫理にかなうとは言えないものが多いと思われます。
今のところひろぽんさん自身も、この件に関してはご自身の周囲のミクロな例を挙げているに過ぎないようですし。
それでも、ひろぽんさんのような書き方をされては、多くの宗教や信仰に対してフェアでないと思います。
「嘘をついたら地獄におちる」という主張と「汚い言葉を水に聞かせると汚い形の結晶が出来るという現象を実験で確認した」という主張は同じではありません。
前者が嘘でも本当でもありませんが、後者は完全に嘘です。誤解しておられるようですが、科学というものは前者を否定しません。ただし肯定もしません。
それは前者が反証不可能な理論だからです。このようなものを、そもそも科学は取り扱わないのです。
一方で後者はあたかも科学のような体裁をとっているがゆえに、科学という観点から批判されます。水伝で述べられた現象は再現不可能で、この主張は嘘です。
宗教は科学の領域にさえ踏み込まなければ、科学と共存することが出来るでしょう。
例えば教義に反するからといって、科学的事実を否定したりしなければ。
しかし疑似科学は出来ません。水伝は科学の偽者です。そして完全なる嘘です。それも詐欺的ビジネスに直結する悪質な嘘ですね。
道徳科目でも他の科目でも、明らかに嘘であることを事実としてとりあげることについて、私は反対です。
最後になりますが
「言葉はいつまでも消えないんだ。振動になって世界を漂い続ける。だから、君が吐いた人を傷つける言葉は、何十年後かに、君を傷つける」
と教えられたひろぽんさんが、「根性が悪い」「クズ」「親父チック」等という人格否定や差別を伴う表現を用いていることは、その後の論理について信頼を損ねるものです。
倫理教育について言及する立場から発言されているわけですから、もうすこし自重してください。
ひろぽん様へ、ただの意見表明なのでご回答いただく必要はありません。読んでいただければ幸いです。
>内容自体よりも、その行為をバカにする方が必ず出てくることを不思議に思います。ご自身の意見表明自体、じゃあ、ただの自己満足ですか?
あなたの抗議や批判をする行為自体をバカにする気は毛頭ないのです。むしろ、弱い者いじめを許しておけないタイプの方だとお見受けしました。失礼と感じたのなら申し訳ありません。ただ、あなたの抗議が真剣なものであるのと同じくらい、少なくとも私は現実の問題としてこれを捉えているということをご理解願いたいだけです。ご理解いただければ、私は満足いたします。
>子供に「死んだらどうなるの?」と尋ねて「死んだら焼かれて灰になって終わりだ」と事実を伝えなければならないと考える親父
「死んだら焼かれて主に二酸化炭素と水と灰になって大気と大地に還り、次の命を育てる糧となり、永遠にこの流れが続いていく」という多少科学的な説明をご用意いたしました。自己保存の欲求をくすぐるための宗教的説明の方が本当に優れているのでしょうか。もちろん、「天国」、「地獄」という謎の符号で子と向き合う労力と時間を節約するという方法が取られがちなことも分かります。しかし、例えば、
>結局「他人にやさしくしなくてはならない」とか「嘘をついてはならない」という道徳には明確な根拠なんてない。
とおっしゃりながら
>共同体全体では、質が低下してしまいます。
とご自分で解答していらっしゃるように明確な根拠がある道徳もあります。ゲームの理論とかまで子に理解させるのは困難でしょうが、可能な限り子と向き合った方がいいのではないでしょうか。綺麗事ばかり言ってすみません。
私は小学生の時から嘘は良くないと理解していて、教師の悪気のない嘘にしゃーない付き合ってやるかという生き方を強いられた記憶があるので、今回の件でいったい何世代こんな孤独な思いをさせる気か?さらに嘘追加か?という絶望感を覚えました。戦争中に「戦争は良くない」と主張した私の親に比べれば、水伝ははるかに楽勝の相手なのがせめてもの救いです。
あ、うっかり忘れておりました。私、昔、水の結晶などという単純なものでなく、超ーはるかに難易度の高い膜タンパク質の結晶化をやっておりました。「バカ野郎、針状結晶になったらぶちまけるぞ」と口に出したり、心で念じたりしながら美しい結晶を出してきました。水だけでやれとか紙に書いて貼らないとダメとかは堪忍してほしいです。水伝が虚偽なのは私にはあまりにも当たり前でして、道徳の教材にするなどと聞くまでは笑いの対象にもなりませんでした。失礼しました。
おっしゃるとおり、私の言葉による要約ですから、当然、江本の本に「そのものずばり」の言葉が書いてあるはずはありません。
しかし、私の要約は、そう的外れなものではないと思います。
なぜなら江本は、モーツアルトの曲の一般的な評価や、「ありがとう」が使われる一般的な場面、また、一般的には少数派とされる、ヘビィメタルを良しとするような価値観など、つねに一般性を前提として、善悪の判断を導き出しているからです。
モーツアルトが実は下ネタ大好きだとか、腰に手を当てた皮肉たっぷりの「ありがとう」とか、ヘビィメタルによるバラッド、ラブソングとか、少数例外的なケースは顧慮していないないからです。
科学的云々の部分をおいといても、江本の価値判断の仕方が誤りであり、このような決め方はけっして認められないことは、人の価値観は科学で判断するものではないとするひろぽんさんならば、ご異存ないことでしょう。
であるならば、江本の主張を、道徳のたとえ話としてでも用いることが、どれほどふさわしくないか、ご理解いただけるのではないでしょうか。
江本の話を聞かされたヘビィメタル好きの子供は、どう思うでしょうか。「親バカ」は悪でしょうか?
そして、ひろぽんさんに一番解っていただかなければならないことは、誰も、子供を良い方向に導こうという情熱を否定してはいない、ということです。
否定しているのは、子供たちを導くための方便として、問題のある江本の「水からの伝言」を用いようとすることです。心構えがよくとも、方法が誤っていたのでは、意味がありません。
「水からの伝言」は、サンタクロースや桃太郎とは違うのです。ひろぽんさんが科学的な部分を無視しようとも、江本本人は、「水からの伝言」は自然科学であると言ってはばからないのですから。
善悪の価値観は、人が生み出したものです。自分たちで生み出したものを、判定作業が苦しいからといって、水に責任を負わせていいはずがありません。
きっと水も、迷惑に思っていることでしょう。もし水に口が聞けるなら、きっとこう言うでしょう。
「聞いてないよ!」
って。
「水伝は似非科学だから道徳教育にふさわしくない」ということだと私は認識しています。
「科学的なものしか教えてはいけない」ではなく、「似非科学は教えてはいけない」です。
ひろぽんさんが反例として出されている、
・死んだら天国に行く
・サンタクロースはいる
・悪いことをしたら地獄に堕ちる
・言葉は振動になっていつまでも世界を漂い続ける
という教育の例はすべて似非科学ではありません。
私としては、道徳教育として大きな意味があるのなら、ファンタジーや宗教が由来の道徳観を
教えてもいいと思っています。しかし、それが「科学を騙った」ものならふさわしくないと
考えます。その理由はすでに水伝の問題点として多く挙げられていますが、一言で言うと、
似非科学は科学という日常生活で最もよく使われる判断基準を狂わせるからです。
仮に、水伝がおとぎの国のふしぎな水の話なら少なくとも似非科学という問題点はなくなり
ますし、逆に、(ひろぽんさんの例でいうと)10年前に吐いた暴言の波動が私を傷つけたこと
を観測した、と主張すればそれは似非科学という問題が生まれます。
水からの伝言は、問題点が多く挙げられているためにぼやけがちですが、道徳教育へ
導入できない一番の問題点は似非科学であるということだと私は思います。
>#43
今回の記事のテーマって、水伝を鑑賞した教育者に対する批判でしょ。水伝自体への批判なら、私も理解できます。
このコメントのように、ひろぽんさんは水伝がどういう出自のものかに依らず、「道徳的によさそう」なんだから「道徳の教材にしてもよい」と主張しているようです。
つまりは、その背景や江本のねらいなどは、それはそれでおいておこうというスタンスです。
このように、水伝の社会的な影響とそれ自体の価値を切り放して評価することは不可能であるという、共通認識を持つことができなければ、議論はこれ以上有意義な方向には進まないでしょう。
他所でもこのようなスタンスの方を過去に見かけましたが、最後まで平行線だったと記憶しています。
>aquaさん
>水からの伝言は、問題点が多く挙げられているためにぼやけがちですが、道徳教育へ
>導入できない一番の問題点は似非科学であるということだと私は思います。
水伝が悪徳商法と繋がるニセ科学であるというのも非常に問題ではありますが、科学以前に道徳として間違っている事の方が問題なのではないでしょうか。仮に水伝の「言葉や音楽に宿る想念を水が記憶していて気相成長に影響を与える」という主張が科学的事実だったとしても、これは道徳の根拠に用いるべきではないでしょう。
躾は習慣付けで形を身に付ける物ですからあれこれ考える必要は有りませんが、道徳は人々が自らの頭で考えて善悪を判断していく物です。判断に迷って人に教えを請うのは構いませんが、思考停止して水に答えを聞くというのは道徳として根本的に間違っています。
また、善悪の判断基準が人工雪の形状にあるという事は、外見の印象の好悪をもって善悪を判断するという悪しき道徳を植え付ける事にもなりますね。
人体の70%は水だから、という説明が為されるのも問題です。私は道徳を物理的に説明する、つまり人の心や善悪の価値判断を物質に還元するという事は、人間の尊厳を踏みにじる行為だと考えます。感謝の言葉は人間や人の心に向ける物であって、人の体内の水分に向ける物ではない筈です。
実際に江本勝は各種の元素には人の様々な感情に対応する波動が有るとか、果ては仏教の108の煩悩は108種の元素に対応している(しかも「僕の中での常識」と来た)などと主張しているのです。
私は寺院職員でして、僧侶の方に対して水伝批判(と言うよりは江本勝のカルト思想批判)をする際に、「この人に言わせれば仏舎利(釈迦の遺骨)も煩悩の塊だそうな。煩悩を滅除して成仏に至るには火葬ではなく対消滅反応葬が必要なんですかね」などと語ったりもします。
宗教界では「科学的に見て間違っている」というニセ科学批判の言説は届きにくいどころか、下手をすれば反感を持たれかねないので、「価値判断を含まない自然科学では宗教の正当性を証明出来ない。ましてやニセ科学をや」という回り道も模索しなければならないのです。
閑話休題、言葉の良し悪しという点でも水伝は問題が多いと思います。言葉という物は同じ単語でも状況や文脈次第で価値が変わるのではないでしょうか?
盗品や賄賂を差し出された時、「ありがとう」と言って受け取るか「ばかやろう」と言って突き返すか、どちらが人として正しい言葉かを水伝の基準で判断したらどうなるのかを考えてみれば、水伝を道徳の根拠に用いる事の間違いは簡単に分かると思います。
文脈に関しては仏教の経典に格好の素材が有ります。
http://zenkouji.net/tera/sutra/sesonge.htm
“地獄鬼畜生”の三連コンボを筆頭に、水伝的NGワードが続出する“邪悪な経典”です。日本仏教で般若心経と並んで幅広く読まれている経典の内容がこれですから、仏教徒の体内の水分は救い様が無い程に汚れているのでしょうね。
字義通りの原理主義的解釈でも様々な災厄からの救済、法華衆の解釈では「衆生を救済する為にはその苦しみの根源を見抜く智慧を持つべし」という読み方も出来る経典なのですが、水伝ではこの経典をどう解釈してどの様に人生に役立てるか、という問いを発する事すらも禁止されてしまう模様です。
私は水に判断を委ねて(実際には江本勝が恣意的に選択した)空疎な美辞麗句で染められた巧言令色鮮仁な世界よりも、真心のこもった「ばかやろう」が許される世界の方がずっと人間らしいと思うのですけど。
>科学以前に道徳として間違っている事の方が問題なのではないでしょうか。
主張をわかりやすくするために「一番の問題点は似非科学であるということ」と
書きましたが、もちろん道徳的にふさわしいものが道徳教育に用いられるべき
だと思います。
また、「科学的なものしか教えてはいけない」「科学的な裏付けがある方がより
ふさわしい」と言うつもりはなく、あくまで「(少なくとも)似非科学は教えて
はいけない」というのが私の言いたかったことです。
水伝に限らず一般的な話として、「あるネタ」を道徳教育に用いようとした場合、
「似非科学ではないか」
「道徳的にふさわしいか」
の2点を考えるとすると、後者よりも前者の方が判断しやすいだろうと思います。
よって、「似非科学でない」というふるいすら通り抜けられないものに対して、
道徳的な議論をするまでもない、という考え方の順番が私の頭の中にあったので、
「一番の問題点は」と表現しました。考え方の順番ですので、これをもってどちらが
より重要だと言うつもりはなく、どちらも重要だと思います。
水伝に限っていえば、似非科学でありかつ道徳的にも問題がある、と認識してい
ますので、氷村さんのお考えには同意です。
自然の性質として、「水からの伝言」で使われている結晶の作り方をすると、6角形がはっきり出るものも、そうでないものもランダムにできます。この事実は変えようがありません。
で、水に言葉の善し悪しを判定させることができるのなら、水に友達の名前を書いた紙を貼って氷を作れば、コイツと友達になっていいかどうかだって判定できることになりますよね。「水からの伝言」には、「ヒットラー」と書いて見せた結晶が汚いって話が出ているわけですから、他の有名じゃない人の名前を使っても同じことができるはずです。すると、「お前の名前は汚い結晶になったからもう付き合わない」って言えちゃうわけですよ。
結晶はランダムにできるのですが、結晶の形と言葉(や人名)が関係するということを前提にするのならば、かならず何割かの人は「コイツはきたない結晶のヤツ」ってなりますよ。新しいいじめの材料になりますね。「六角形の結晶が出来たヤツだけ仲間に入れてやる」とかね。
最初からいじめる意図なんかなくて、自分の大好きで仲の良い友達の名前を書いて、さぞかしきれいな結晶ができるだろうと期待してやってみたら全然駄目だった、ってことも起こりますよ。ショックですよねぇ。仲良しの友達の結晶が汚いなんて。次の日からどんな顔して会えばいいんでしょうね。
女性校長会の人達が広めようとしているのは、つまりはこういう話なんですよ。
天国へ行くのはキリスト教徒だけではないですか?
仏教徒や神道信者には無関係な思想ですよ。w
アナタ大丈夫ですか?
もちろん、先生(失礼)や良識ある方々のお優しい論点の説明には感心し、うなづくばかりです。
また、ひろぽんさんに対して、ひと言の決めゼリフ・悪態なども目につきますが、例え長くなくても結構ポイントを点いていると感じています。
ひろぽんさんも、悪態と捕らえず裏側にある言わんとする部分をよく洞察されてはいかがでしょう?
私もあまり長々とは書かず、一言だけ。
子供の教育現場でモノを教えるのに、なぜ端的な言葉だけしか引用しないのか、私には不思議です。
・死んだら天国に行く→人は焼かれたら杯になり、物質的には消えてしまう。ただし・・・
・サンタクロースはいる→本来、サンタクロースはお伽噺の世界のお話なんだよ。でもね、みんなの心がキレイで、懸命に願う気持ちが通じれば・・・
・言葉は振動になっていつまでも世界を漂い続ける→言葉や音というのは空気の振動によって、人間の耳に届くだけのエネルギー。でも、そこにはカタチに捕らわれない『気持ち』というものが存在し・・・
この例のように、きちんとした科学諸説を教えながらも、付帯して人としての心のあり方や愛情というものも説いてあげれば良い事。
ひろぽんさんの論理は偏っていて、まさに論点反らし。
単に科学から目を背けようとしているようにしか見えないですね。