Via はてなブックマーク - pêle-mêle - 原文、読んでる?
2007-08-22 - pêle-mêle:原文、読んでる?
昨日の日記のコメント欄でanotherさんは理系の学生は語学に興味が薄く、また英語至上主義が徹底しているので、「英語に似てるから」という消極的な理由で第二外国語にドイツ語を選ぶことが多いと述べていた。この時点でオレはどうにも悩んでしまう。理系では「論文を原文で読む」という習慣が重視されていないのだろうか。
文学・哲学研究では「お前、ちゃんと原文で読んでるのか?」がひとつの殺し文句になっている。この時点で原文を読んでいない者は「負けました」と頭を下げて投了するしかないのだが、理系ではどうなのだろうか。
たとえば理学部数学科に籍を置いてポワンカレについて本格的に研究したい者なら、当然ながらフランス語を学び、ポワンカレの論文を原文で読むものだとオレは勝手に想像している。もしここで「理系の学問は普遍的・客観的なのだから、原文がどの国の言葉で書かれていても関係ない」と言われたら、オレは「あらゆる言語にはイデオロギーが内在しており、また数学だろうが物理学だろうが化学だろうが、その論文が書かれた時点での文化状況と無縁ではいられない。ゆえにポワンカレを学ぶのであればフランス語を学び、19世紀後半のヨーロッパの置かれた文化状況も研究しなければならない。そうした作業をネグレクトしてポワンカレの『理論』だけを研究するのは知的怠慢である」と反論するだろう。しかしこういう主張を繰り返す人間は「文化相対主義者」というレッテルを貼られ、ソーカル=ブリクモンようなひとから嘲笑されるのだろうか。それとも「そういうのは科学者じゃなくて、科学史家がやることだ」と諌められるのだろうか(オレのこうした書きかたも「安易なレッテル貼り」と言われるのかもしれないが、何しろ理系の実態をよく知らないので、こんなことしか書けないのだ)。
多分このブログを読んでくれている人なら「ちょっと待て」と思わず突っ込みが入る人が何人もいるんじゃないかと思う。
なぜならこの文章は理系と文系の「研究の対象の違い」についてかなり誤解している―もっと突っ込んで言うと、理系の研究対象を文系のそれと同じだと思っている―からだ。
はてブやコメント欄をのぞいてみたら、案の定既に何件かツッコミが入っていたんだが、それらを読んでもどうにもかゆいところに手が届いていないもどかしさを感じたので、こんな風にコメントしてみた。
blackshadow 2008/09/04 22:58
はじめまして
>ポワンカレの『理論』だけを研究するのは知的怠慢
多分理系と文系の流儀の違いを知っているかどうかでトコトンすれ違う点がこれなんでしょうね。
理系の研究というのは文字通り「世界の理(ことわり)」について行われるものです。
そして理系の観点から言うと、例えば『ポアンカレ予想』という理論は理系の研究対象になっても、『ポアンカレ』という人物は理系の研究対象になりえません。なぜなら『ポアンカレ予想』が正しいか否かを証明するに当たって、ポアンカレが当時何を考えていたとかどんな思想背景を持っていたとか当時の時代背景が予想の構築にどう影響したかとかいう情報は一切必要ではないからです。
理系の研究対象は「自然」であるがゆえに(数学はちょっと特殊ですが)、過去の研究の時代背景や人物がどうであろうが、その内容の真偽は同じ「自然」を研究することで明らかになります。同様に、理系のこの特性ゆえに、余計な情報を切り捨ててエッセンスである「理論」だけを取り出すことが可能です。むしろ必要でない情報をそぎ落として行って尚残るものこそ、理系の研究の基礎となるものですから。
そして、その基礎の上にこれまでは知られていなかった新しい自然の理解を発見し積み重ねていくことこそが理系の研究です。
一方で科学『史』の学問領域だと、こういった「理系の研究」では必要ない情報こそがむしろ重要となってきますけどね。
要は研究対象の違いです。
別に「文化相対主義者」とかそういうのじゃなくて、理系文系の双方の研究対象がまったく異なるものなんですよ。
もう少し細かく書いてもよかったかもしれないが、他所様のコメント欄に長文を投下するのもアレなので、シンプルにまとめてみた。
多分yskszkさんと私や他のコメンターの相違点というか、すれ違いの源は、ここに集約できると思う。
ここからは私の主観に基づく印象論だが、文系でこの手の誤解(というよりも、自分ならば研究対象とする情報があっさり切り捨てられてどうでもいい扱いを受けていることに対する反発と言った方が適切な気がする)を持っている人というのは少なくない感じがする。
単に研究対象がまったくの別物だから、必要となる情報も違うというだけの話なんだが。
コメント先のダイアリーは既に更新停止しているようなので、ちょっと自分用のメモ代わりにここに記録を残しておくことにした。
なおyskszkさんは今年5月にお亡くなりになっています。こうした話題ではおもしろいコメントをされる方だったのですが、残念です。
なにしろ、何年もかけて研究してることをライバルが先に論文発表してしまうかもしれないし、いまうまくいってない部分を解決する方法がどこかの論文に乗ってるかもしれないんだから。
ほかの研究者に先に論文発表されたことありますが、まあなんというか2度とああいう経験したくありませんです。
科学理論に文化的偏見がまじることがないわけではないので、無邪気に言語は無関係とかいっちゃいけない、ぐらいならまだ話はわかるのですが。
コーヒー盛大に吹いた(w
いや、よりによって、自然科学の中でも文化的背景の影響をもっとも受けにくいであろう数学理論を例示する、という発想はそれこそ「理系」には無いものですな。
そもそも、この手の話を高校の進路分けにしか意味を持たない「理系文系」という二分法で語ってしまう時点で、学問分野を俯瞰できていないことが明らかというか、ごく狭い視点でしかモノを考えていないのが伺えるというか。。。
>単に研究対象がまったくの別物だから、必要となる情報も違うというだけの話なんだが。
おおもとの疑問への回答としてはこれが全てだと思います。必要となる情報が違うので、
自ずと流儀も変わってきますよね。
>理学部数学科に籍を置いてポワンカレについて本格的に研究したい者なら(略)
>そうした作業をネグレクトしてポワンカレの『理論』だけを研究するのは知的怠慢である
この考え方で、研究対象と流儀を「理系」の視点に書き換えると、
|文学部哲学科に籍を置いてポワンカレについて本格的に研究したい者なら、当然ながら
|微分幾何学や物理学を学び、ペレルマンによるポワンカレ予想の証明を理解しなければならない。
|そうした作業をネグレクトしてイデオロギーや文化状況だけを研究するのは知的怠慢である。
となるのでしょうか。やはりおかしいですね。研究分野が違えば研究対象や流儀が違うのは当たり前で、
自分の流儀で他分野を理解しようとすることは、「ものさしで重さを測る」ような不毛感を受けます。
ただし、そのような異分野の視点からブレイクスルーが起こることもありますし、偏見や認識不足に
陥らずに議論ができればとても有益だと思います。
蛇足ですが、元ブログの方々は研究対象の分類をポワンカレ、バシュラールなど人名で
区分けされていますね。私にとって、ポワンカレを研究する、バシュラールを読む、という
ような表現は新鮮でした。私なら、数学的直観主義を研究する、科学認識論の本を読む、
と表現しそうです。このような所にも流儀の違いが出ているのでしょうか。
(言葉はWikipediaで調べました)
そうですか、このダイアリーの人お亡くなりになってましたか。
元記事が多くの人が同じところに引っ掛かりそうな良い発問だっただけに、残念です。
>理学はなんというか、言語的な差異もふくめた属人性がないようにそぎ落としていくような行為
理系の研究対象となるものは、発見者の名前や記述された言語によって内容が変わるようなものでは困りますよね。
>てと さん
百年前には理系の分野でも国ごとに別の言語で論文書いていたため、最先端の研究にキャッチアップしようと思ったらまずその国の言葉を覚えたり留学したりしなければならなかったわけで、その頃を思うと今はいい時代になったのだと思います。少なくとも英語さえちゃんとやっておけば何とかなりますから。
まあそのおかげで世界中で研究競争が激化して、同じ研究テーマで先に論文出されたりといったことも起きますけど。
>やまき さん
>科学理論に文化的偏見がまじることがないわけではないので、無邪気に言語は無関係とかいっちゃいけない、ぐらいならまだ話はわかるのですが。
そうですね。
科学も人の営みである以上、その発展や方向性に時代や社会背景からの影響を免れ得ないものであり、そういう余分なものをそぎ落とすプロセスも含めての科学なのですが、この手の研究対象の誤解はちょっと困ります。
>Indigo さん
よりにもよって「数学」ですからね。
私は前にも何度か似たような主張を見かけたことがあるので別に吹き出すことはありませんでしたが、この手の誤解については一度文章にしておいたほうがいいと思い、今回のエントリと相成りました。
>aqua さん
>この考え方で、研究対象と流儀を「理系」の視点に書き換えると、
>|文学部哲学科に籍を置いてポワンカレについて本格的に研究したい者なら、当然ながら
>|微分幾何学や物理学を学び、ペレルマンによるポワンカレ予想の証明を理解しなければならない。
>|そうした作業をネグレクトしてイデオロギーや文化状況だけを研究するのは知的怠慢である。
>となるのでしょうか。
立場をひっくり返して読み比べてみると、何がおかしいのかより分かりやすいですね。
>研究分野が違えば研究対象や流儀が違うのは当たり前で、
>自分の流儀で他分野を理解しようとすることは、「ものさしで重さを測る」ような不毛感を受けます。
>ただし、そのような異分野の視点からブレイクスルーが起こることもありますし、偏見や認識不足に
>陥らずに議論ができればとても有益だと思います。
同意です。
そのためにも、双方が自分と相手の立ち位置をきちんと認識することが重要だと思います。
端的に言えば、文系・理系というよりも、単に「分野によって研究対象が違うから」の一言ですむ話だと思います。この、pele-meleさんは、「なぜ、自分の分野では原文を読むのか」が、わかっていなかったのではないかと思います。
文学・哲学では、ある論文や文学作品について、「その論文・作品が社会や後世の論文・作品にどのような影響を及ぼしたか」を研究対象とするものだと思います。そのために原文を読むのです。原文を読まなければ、ある論文・作品がもたらした影響について論じたとはいえないでしょう。この分野で原文を読まないことは、理系で言えば、査読者が論文の本文を読まずに、アブストラクトだけ見て論文を評価するのと同じことだと思います。「一部だけを見て、全体を見たことにしている」と評価されるわけです。研究業務における怠慢だと受け取られても仕方ないでしょう。
別に、前職が科学者の人間でも、「この作品が社会にどのような影響を及ぼしたか調査して欲しい」といわれれば、同じように原文を読もうと努力すると思います。研究の興味が論文自体・作品自体なので、原文を読むことが評価されるのです。個人の思想とか研究の方向性以前に、研究の興味、「何を研究するのか」の問題です。
科学では、ある論文について「その論文の内容が正しいか否か」が研究対象になると思っています。ですから、何語で書かれていようが関係ありません。内容のみが評価されます。表現の部分は評価対象にならないからこそ、なるべく全員に伝わりやすいように、言語を統一して、平易な英語でかかれるものだと思います。
言語学でも、私の知る限り、少なくとも計算言語学の分野では、科学と同じスタンスを取ります。非常に端的にいえば、「xxという例が、人間の言語の中に存在するか否か、存在するとすれば、どのような状況で存在して、どの程度の頻度か」というようなことが研究の対象となります。したがって、論文自体は何語で書いても関係ないので、結局、英語で書くことになります。各言語の文例がevidenceになるので、論文中に意味が分かるよう英語を併記して載せられます。
ちなみに、現在の自然言語処理には、機械学習の手法がどんどん入ってきていて、バイオインフォマティクスと本質的に(数学的に)同じになって来ています。生物系の人には、事実上、バイオインフォマティクスみたいなことをやっています、と言った方がわかり易いのでしょうか・・・
というわけで、まとめますと、
「研究の対象によっては、論文・作品の原文を読むこと自体が研究手法になるので、必要となる場合がある」
というだけの話だと思います。
>この、pele-meleさんは、
pele-mele(アクサン省略)は、ブログの名前で、yskszkが著者の名前だったのですね。訂正いたします。
また、お亡くなりになったとのことで・・・お悔やみ申し上げます。
三慢とは、怠慢、自慢、傲慢。
人間として、社会人として正しく生きていくには、怠慢自慢傲慢になってはいけない、そう自分を戒めながら日々を過ごしています。
ただ、実行するのは難しいものです。
ふとした拍子に、怠慢となり、自慢をし、傲慢になってしまう。
要するに、自分に甘く他人に厳しい、それが人間の本質なのかもしれない。
だからこそ、怠慢自慢傲慢にならないよう、脱三慢を忘れないようにしてます。